江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

尾張の岸派、喜田華堂と門人

喜田華堂「富士巻狩図」

尾張の岸派では、喜田華堂、そのあとを継いだ中島有年らがいる。喜田華堂(1802-1879)は岐阜県不破郡今須村に生まれ、若くして京都に出て岸駒岸良に学んだ。20年にわたり東国を遊歴して各地の名勝を写生し、文人墨客と交わった。嘉永の初めに名古屋の広井水車町に住み、尾張藩御用絵師となった。清廉風雅な生活を愛し、門人も多かったというが、華堂に子はなく、門人の弟子たちもやがて南画系などへと転じていった。

中島有年(1833-不明)なかじま・ゆうねん
天保4年伊勢神戸生まれ。喜田華堂に岸派の画を学び、とくに花鳥を得意とした。華堂に子がなかったため、その祭祀を司ったという。

柴田芳洲(1840-1890)しばた・ほうしゅう
天保11年愛知郡柴田新田生まれ。名は弘、字は子道、通称は栄三郎。名古屋に出て長者町に住み、はじめ喜田華堂について岸派を学び、のちに村田香谷に従い南画に転じた。上京して活動したが奇行が多かったという。明治23年10月10日、51歳で死去した。

柴田年人(不明-1910?)しばた・としんど
柴田芳洲の妻。名はのぶ。画才があり、浮世絵を好み、上京後は水野年方に師事した。明治43年頃死去。

柴田小蘭(1866-不明)しばた・しょうらん
慶応2年10月27日名古屋中市場町生まれ。柴田芳洲の娘。名はかね。幼い頃から父に学び、明治17年に第2回内国絵画共進会に出品した。

水谷芳年(1879-1928)みずたに・ほうねん
明治12年10月名古屋本重町生まれ。名は勝挙、字は平卿、通称は千代吉。はじめ中島有年に岸派の画を学び、のちに石河有りんについて南北合法を修めたが、山本梅逸を崇拝し、その遺法を研究した。昭和3年8月7日、50歳で死去した。

牧野竹亭(1861-1937)まきの・ちくてい
文久元年11月生まれ。挙母藩士・牧野利幹の長男。名は敏太郎。明治9年挙母郷学校を卒業、挙母の助教試補をはじめとした教職についた。田部井竹香、神谷紫水、柴田芳洲に南画を学び、19年頃に名古屋洋画研究会に入り、野崎華年に師事して西洋の鉛筆画を修めた。昭和12年11月、77歳で死去した。

立松宏年(1894-不明)たてまつ・こうねん
明治27年名古屋台所町生まれ。名は鉱一。8歳の時に水谷芳年の門に入り、南北合法を学び、12歳で第2回内国絵画共進会で褒状を受けた。

田中有芳(1902-不明)たなか・ゆうほう
明治35年生まれ。別号に篠原荘がある。はじめ水谷芳年につき南北合法を学び、のちに上京して服部有恒に師事した。

富田范渓(1883-1947)とみた・はんけい
明治16年名古屋生まれ。名は賢太郎。はじめ水谷芳年に学び、明治43年の新古美術展に出品、のちに上京して池上秀畝に師事し、文展・帝展に出品した。大正3年東京美術学校を卒業。花鳥を得意とし、下谷区真島町に住んでいたが、昭和18年に帰郷して名古屋市東区東片端町に住んだ。佐藤空鳴と東西を分ける当代の人気画家といわれた。昭和22年、55歳で死去した。

渡辺幾春(1894-1975)わたなべ・いくはる
明治28年名古屋生まれ。幼い頃から水谷芳年に学び、のちに京都の山元春挙に師事し、文展などに出品した。大正14年に京都絵画専門学校別科を卒業。13年には名古屋在住の朝見香城、喜多村麦子、織田杏逸らと名古屋地区の日本画の革新を求め、中京美術院を創設した。昭和50年、80歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(渡辺幾春)

尾張(20)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑