江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊勢長島藩に招かれ藩校文礼館を再興した十時梅厓

十時梅厓「山水図屏風」東京国立博物館

十時梅厓(1749-1804)は、漢学を伊藤東所に、書法を大谷永庵と趙陶斎に、和歌を小沢蘆庵に学び、唐様の書や山水・四君子を得意とした。天明4年頃、陶斎との縁で知り合った伊勢長島藩主・増山雪斎に招かれて藩儒として仕え、藩校文礼館を再興して初代学長をつとめた。

寛政2年、藩に数カ月の暇を乞い長崎に遊学し、費晴湖、陳養山と交友して画法をたずねた。帰途泉州佐野の豪商・食野氏の後援を得て長期逗留したため帰藩が遅れ、罰として藩に蟄居を命じられたが、食野氏の計らいで赦免され、以後食野氏の食客となり、食野家所蔵の書画を模写するなどして研鑽を積んだ。

寛政12年(一説には享和2年)の致仕後は大坂で隠居し、細合半斎、木村蒹葭堂、岡田米山人、浜田杏堂らと交流した。酒を嗜み、磊落奇倚な性格で、周囲には狂と映っていたらしい。

十時梅厓(1749-1804)ととき・ばいがい
寛延2年生まれ。大坂の人。名は業、のちに賜。字は季長、子羽。俗称は半蔵。号は梅厓、顧亭、清夢軒、天臨閣。漢学を伊藤東所、書を大谷永庵と趙陶斎に学んだ。天明4年頃伊勢長島藩主・増山雪斎に招かれ、長島に藩校を再興して院長となった。寛政2年長崎に遊学し、費晴湖や陳養山に『芥子園画伝』や書法、学校制度などを質問した。泉州佐野の豪商・食野青圃との関係も深い。寛政12年致仕後は大坂で隠居した。文化元年、56歳で死去した。

十時梅谷(不明-不明)ととき・ばいこく
十時梅厓の子。本姓は山田、名は順、字は伯祐。号は梅谷、禎斎。詳しい経歴は不明だが、父同様伊勢長島藩主に儒臣として仕え、かたわら書画を嗜んだ。

大阪(30)-画人伝・INDEX

文献:近世大阪画壇、浪華人物誌1、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画、近世大阪画壇