稲垣足穂「無題」
稲垣足穂(1900-1977)は、大阪市船場の歯科医の家に生まれた。少年時代から飛行機に大きな関心を持ち、関西学院在学中から「飛行画報」を発行するなど、執筆活動を始めた。同校卒業後に上京し、当初は画家を志して未来派美術展や三科インデペンデントに出品していたが、佐藤春夫の知遇を得て小説を書くようになった。
大正11年、小説の第1作『チョコレット』を発表、翌年には代表作となる『一千一秒物語』を発行した。飛行機への眷恋の思いは続き、その作風は、機械、飛行、天体といった題材への強い志向が感じられる独特のもので、大正末期から昭和初期に台頭したモダニズム文学の若手作家たちの一群「新感覚派」の一人に挙げられた。
一時期は、佐藤春夫との絶縁や、アルコール、ニコチン中毒のため活動を中断したが、戦後に活動を再開し、昭和29年『A感覚とV感覚』を発表して注目を集め、同様のテーマを扱った『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞した。
稲垣足穂(1900-1977)いながき・たるほ
明治33年大阪市船場生まれ。父・祖父ともに歯科医。明治40年浪華尋常小学校入学。航海家を夢み、活動写真のフィルムに興味を持つ。大正2年武石浩玻の京阪都市聯絡飛行に大きな関心を寄せる。大正3年関西学院普通部に入学。この頃マリネッティの「未来派宣言」や東郷青児の「パラソルさせる女」に衝撃を受ける。大正8年上京、いったん関西に戻ったのち、翌々年再び上京。大正12年『一千一秒物語』を刊行。昭和3年『天体嗜好症』を刊行。昭和21年『弥勒』を刊行。昭和29年『A感覚とV感覚』を「群像」に連載。昭和43年『少年愛の美学』『僕の”ユーカリ”』などを相次いで刊行。翌年『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞。昭和46年大阪、京都、東京で「タルホ・ピクチュア展」を開催。昭和52年、76歳で死去した。
大阪(151)-画人伝・INDEX
文献:画家の詩 詩人の絵、稲垣足穂の世界 タルホスコープ