佐伯祐三「郵便配達夫」
佐伯祐三(1898-1928)は、大阪の浄土真宗本願寺派・光徳寺の二男として生まれた。中学時代は野球、水泳などで活躍したが、水彩画を好んだ従兄の浅見憲雄の影響を受け絵画に興味を示すようになり、医師にしたいと願う両親を説得して大阪で洋画塾を開いていた赤松麟作に入門した。
19歳で上京して川端画学校で学び、翌年東京美術学校西洋画科に入学した。在学中に銀座の象牙細工問屋兼貿易商の娘・池田米子と知り合い結婚、24歳の時に長女の彌智子が誕生した。美学校では、制作を放り出して大工仕事に熱中した時期もあり、成績は目立つものではなかったが、卒業後のパリ留学を目指し在学中からフランス語を学んでいた。
大正12年、25歳で東京美術学校を卒業し、同年11月一家で日本郵船香取丸に乗船し、渡仏の旅に出た。翌年1月パリに着き、ホテル住まいののちパリ郊外西南クラマールの借家に落ち着いた。同年初夏、先に渡仏していた里見勝蔵に連れられてヴラマンクのアトリエを訪ねたが、ヴラマンクにアカデミックな画風を激しく批判され、佐伯はフォーヴィスムに傾倒していくようになる。
大正13年12月、モンパルナス駅裏に移転し、翌年には靴屋の店頭を描いた「コルドユリ」がサロン・ドートンヌに入選、パリにおける画家デビューとなった。佐伯のアトリエには、毎夜のように画家をはじめ、音楽家や文筆家ら、同じく留学していた日本人の表現者たちが集い、ちょっとしたサロンのようになっていたという。
大正15年、佐伯の健康を案じる母の求めに応じ、同じくパリに来ていた兄・祐正を加えた一家でイタリア経由で帰国の途につき、アメリカを回る兄とローマで別れ、ナポリから日本郵船白山丸に乗船した。帰国後は、パリで交友を深めた里見勝蔵、前田寛治、小島善太郎に木下孝則を加えて1930年協会を結成、渡欧作を第13回二科展に特別陳列した。
昭和2年3月、中央美術展、全関西洋画展などに出品し、4月に新宿の紀伊国屋で個展も開催した。6月には1930年協会第2回展を開くなど日本画壇での多忙な生活を送っていたが、佐伯の心はすでにパリにあり、同年8月2日、ついにシベリア鉄道で2度目の渡仏の旅に出て、同月21日パリに着き、10月にはモンパルナスにアトリエを構えた。
翌年2月、パリで合流した山口長男、荻須高徳、横手貞美、大橋了介とともにパリ東郊のグラン・モラン河地方に写生旅行に出たが、3月に風邪をこじらせ寝込む日が多くなった。4月にリュ・ド・ヴァンヴに移転したが、さらに病状は悪化し、死への恐怖や未完の芸術への執心といった苦悩に注射薬の激烈な作用が加わったためか、6月20日、佐伯はクラマールの森で自殺をはかった。自殺は未遂に終わりアトリエに連れ戻されたが、その夜も脱走を試みるような状態だったため、同月23日にヌイイ=シュル=マルヌのヴィル・エヴラール精神病院に入院したが、身体は衰弱の一途をたどり、8月16日、30歳で死去した。
佐伯祐三(1898-1928)さえき・ゆうぞう
明治31年大阪市北区生まれ。生家は浄土真宗本願寺派の光徳寺。明治45年大阪府立北野中学に入学。大正4年頃油絵を描きはじめ、赤松麟作の画塾に学んだ。大正6年北野中学を卒業し、上京して川端画学校の洋画部で藤島武二の指導を受けた。大正7年東京美術学校西洋画科に入学、長原孝太郎にデッサンの指導を受けた。大正9年築地本願寺で池田米子と結婚。大正10年下落合にアトリエ付きの家を新築。大正11年長女の彌智子が誕生。大正12年東京美術学校を卒業し、同級の江藤純平、山田新一らと薔薇門社を結成。同年一家で渡仏。大正14年ユトリロの個展をみて感銘を受ける。同年秋のサロン・ドートンヌに入選。大正15年帰国。同年1930年協会を結成。第13回二科展に滞欧作を特別陳列。昭和2年新宿の紀伊国屋で個展。同年2度目の渡仏。同年サロン・ドートンヌ入選。昭和3年自殺未遂を起こし精神病院に入院、同年、30歳で死去した。
大阪(150)-画人伝・INDEX
文献:もっと知りたい佐伯祐三