吹田草牧「醍醐寺泉庭」
吹田草牧(1890-1983)は、大阪市東区横堀に生まれた。生家は醤油問屋と海運業を営んでいた。17歳の時に日本基督協会大阪西協会で洗礼を受け、翌年京都に転居し、関西美術院に入り洋画を学んだ。さらに22歳の時に上京し葵橋洋画研究所で学んだが、再興院展などに影響され日本画に興味を抱くようになり、24歳の時に入江波光の紹介で竹内栖鳳の門に入り、のちに土田麦僊に師事した。
大正7年、28歳の時に第12回文展で初入選を果たしたが、翌年の第2回国画制作協会に初入選し、以後主に同展に出品し、洋画的でありながらもいわゆる草土社風の風景画とは異なる、装飾性を帯びた風景表現を行っている、と評された。
昭和3年の国画創作協会日本画部の解散後は、新樹会の結成に参加、さらに同会解散後は帝展に出品した。昭和11年麦僊の死去による山南塾解散後は、十日会を結成し、昭和14年に旧山南塾塾生らと山南会を結成した。戦後は日展に出品せず、昭和34年の東京転居後は主に洋画を描いた。
吹田草牧(1890-1983)すいた・そうぼく
明治23年大阪市東区横堀生まれ。本名は憲一。はじめ洋画家を志し、明治41年京都に転居し関西美術院で鹿子木孟郎に学んだ。明治45年上京して葵橋洋画研究所で学んだが、再興展などに影響され日本画に強い興味を抱き、同年京都に戻り、大正3年入江波光の紹介で竹内栖鳳の門下生となり「草牧」と号した。大正6年土田麦僊に師事し、以後指導を受けた。大正7年第12回文展に初入選したが、大正8年の第2回国画制作協会に初入選し、以後同展に出品し、大正13年会友となった。昭和3年同協会日本画部解散に際し、新樹会結成に参加、さらに同会解散後は帝展に出品した。昭和11年麦僊の死去による山南塾解散後は「十日会」結成し、昭和14年山南会を結成した。昭和24年旧国画創作協会有志を中心とした「由果知社」の結成に参加。昭和34年東京都日野市に転居。昭和39年油彩による個展を日野台教会付属幼稚園で開催、以後昭和52年まで毎年開催した。昭和58年、93歳で死去した。
大阪(134)-画人伝・INDEX
文献:国画創作協会の全貌、日本の花鳥画、京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]