江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

大正前期の大阪日本画変革の契機となった大正美術会

伊藤渓水「鹿図」

大正元年、北野恒富、野田九浦が中心となって、新進の画家たちを糾合し、美術団体「大正美術会」が結成された。創立時には、上島鳳山菅楯彦岡本大更、久保井翠桐、金森観陽水田竹圃、坂田耕雪、平野晃岳、伊藤直応、伊藤渓水らが参加した。

一方で、大正美術会発足の通知の遅れなどを理由に中川和堂植中直斎を中心に、船川華洲、竹村秋峰、松浦舞雪、岡田雪窓、小山春水、井上芦仙、梅村香堂、黒住義芳、小村大雲らによって「土筆会」が結成された。大正2年には大正美術会に先んじて第1回展を三越呉服店で開催し、翌年には第2回展も開催したが、入会資格が中川蘆月、深田直城の門下を中心とするなど保守的だったため会員増加に歯止めがかかってしまった。

対する大正美術会は、展覧会開催は土筆会に遅れをとったものの、大正2年3月には大丸呉服店で第1回展を開催し、会員に加えて、新たに島成園、豊島停雲、山田秋坪、さらに遅れて、山口草平、矢野橋村を迎えて勢いを増し、文展にも入選を果たした会員を擁し、両者の勢力差はいよいよ明らかになっていった。

両団体の対抗が続くなか、大阪にもこの地の画家を網羅した独自の権威ある展覧会が必要として、大正美術会、土筆会から北野恒富、野田九浦、中川和堂が相談し、三越呉服店主催で「大阪美術展覧会」が設立された。同人は姫島竹外森琴石、中川蘆月、深田直城ら大家を除くと、庭山耕園、西川桃嶺、萩尾九皐、湯川松堂、および土筆会の中川和堂、船川華洲以外は大正美術会の会員が占めていた。

大正4年、三越呉服店で第1回大阪美術展覧会が開催されたが、展覧会での同人の在り方をめぐってまた新たな軋轢が生まれ、そのことが土筆会の分裂を引き起こし、梅村香堂、岡田雪窓、松浦舞雪の3人が土筆会から大正美術会に移り、土筆会は解散に追い込まれた。この状況に憤慨した西川桃嶺、湯川松堂らが大正美術会に反対する「大同会」を結成することとなった。

大阪美術展覧会は、その後も大阪での権威ある展覧会として昭和10年代まで、毎年展覧会図録を発行している。大正7年には鑑査のことで問題が起こり、第4回展では北野恒富と上島鳳山が鑑査員を辞退するなど混乱し、翌年の第5回展以降は、鑑査員に菊池契月、西山翠嶂らを京都から迎え、昭和17年の第28回展まで続いたことが確認されている。

伊藤渓水(1879-1967)いとう・けいすい
明治12年愛媛県宇和島生まれ。本名は一雄。幼少より絵を好み、明治31年頃から大阪に出て深田直城門下の平井直水に学んだ。明治33年深田直城画塾の第10回定期絵画大会で3等賞となり、以後も出品した。明治36年第5回内国勧業博覧会に出品。明治40年京都の山元春挙が主宰する画塾早苗会に入塾。明治41年第2回文展に入選、以後第5回文展、第8回文展、第10回文展と入選を重ね、以後も官展に出品を続けた。大正元年に結成された大正美術会に参加して会員となり、直水門下の多くが参加した土筆会には参加しなかった。大正11年煤煙の都大阪という意味をもつ「黒土社」を中川和堂、岡田雪窓、津田禎二らとともに結成。大正5年以降、昭和2年以前に京都に転居。昭和30年代まで画塾・竹風会を主宰した。昭和42年、89歳で死去した。

大阪(131)-画人伝・INDEX

文献:日本画家伊藤溪水 : その作品と生涯、大阪の日本画、上島鳳山と大阪の画家たち