「歴史写真表紙」左:狩野千彩、右:澤田千尋
「歴史写真表紙」左:石田千春、右:和気春光
国内外の話題を写真で紹介する東京の月刊誌「歴史写真」は、大正2年に創刊され、表紙絵と口絵は画家が担当した。同誌顧問の写真家・黒川翠山が大正初期から木谷千種(参考)を撮影してきた関係からか、大正14年から昭和2年末までの3年間、表紙絵を木谷千種と千種の画塾・八千草会のメンバーが交代で担当した。千種たちの華やかな美人画は好評を博し、その後も多くの女性画家が同誌の表紙絵や口絵を担当するようになった。
昭和3年から4年末までの表紙絵は伊藤小坡(参考)の夫・伊藤鷺城が担当したが、昭和3年の口絵は「古代婦人風俗十二ヶ月」をテーマに、12月の堂本印象を除いて大阪と京都の女性画家が担当し、大阪からは澤田千尋、木谷千種、瀧村千束、生田花朝女(参考)が描いた。昭和4年の口絵も和気春光、島成園(参考)、生田花朝女らが描き、東京の柿内青葉(参考)も参加した。昭和5年の表紙絵は、島成園、木谷千種、生田花朝女、和気春光や京都の女性画家が担当し、伊藤鷺城が口絵を描いた。
狩野千彩(1906-1992)かのう・ちあや
明治39年生まれ。本名は其四子。大阪府池田町満寿美に居住した。大阪府立夕陽丘高等女学校在学中は高跳びの選手として活躍した。卒業後の大正12年春から木谷千種に入門し、大正14年第6回帝展に初入選。八千草会研究所の常任幹事をつとめた。結婚後、和多利姓となった。晩年は高槻市登美の里町に住んだ。「歴史写真」の表紙絵には当時珍しい洋装の女性も描き、自身も背が高く洋装を好んだ。平成4年、86歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(狩野千彩)
澤田千尋(不明-不明)さわだ・ちひろ
木谷千種に師事した。大正15年第1回八千草会試作展に澤田千比路の雅号で出品。同年7月朝鮮の上流婦人を写生するため群山に旅行。八千草会研究所では一時期幹事をつとめた。昭和2年頃堺市戎島に住んだ。昭和3年第3回八千草会展に出品。
石田千春(不明-不明)いしだ・ちはる
木谷千種に師事した。大正13年第3回白耀社展に出品。大正15年第1回八千草会試作展に出品。昭和元年の三露千鈴(参考)の葬儀では八千草会総代として弔辞を捧げた。昭和2年第2回八千草会試作展に出品し、その後も八千草会展に出品を続け、原田千里(参考)、狩野千彩とともに八千草会研究所の常任幹事をつとめた。
→参考:UAG美人画研究室(石田千春)
和気春光(1889?-不明)わけ・しゅんこう
明治22年(一説には20年)大阪市生まれ。医学博士・和気胤三の長女。本名は道子。女子高等師範学校を卒業。はじめ上村松園(参考)に入門し、のちに菊池契月(参考)に師事した。大正7年第12回文展で初入選。大正11年第4回帝展に入選。以後7回展、9回展、10回展に入選。大正15年第2回菊池塾展に出品。同2回展、4回展、5回展、7回展に出品。大正15年一子をもうけた。大正7年頃の連絡先は京都市下寺町魚棚長講堂内、昭和11年頃には岐阜市梅林瑞雲荘に住んだ。
→参考:UAG美人画研究室(和気春光)
大阪(128)-画人伝・INDEX
文献:女性画家たちの大阪、島成園と浪華の女性画家