赤松麟作「夜汽車」東京藝術大学蔵
岡山県津山市に生まれた赤松麟作(1878-1953)は、5歳頃に家族で大阪に移り、ペンキで描く山内愚僊をみて、16歳の時愚僊の内弟子となり、油彩画を学んだ。明治30年に東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝に学んだ。明治32年に同科を卒業して研究科に進んだが、翌年退学して鹿子木孟郎の後任として三重県第一中学校の教員となった。
明治34年、第6回白馬会展に出品した「夜汽車」(掲載作品)が白馬賞を受賞し、一躍画家としての名を高めることとなった。明治36年に和歌山県新宮中学校に転任し、明治37年からは大阪朝日新聞社につとめ、新聞挿絵を担当し、戦死軍人の肖像や日露戦争講話批評の漫画を描いて反響を呼んだ。
明治41年、大阪梅田に赤松洋画塾を開き、大正15年には赤松洋画研究所と改称して心斎橋に完成したばかりの「丹平ハウス」に移転した。「丹平ハウス」は、大正13年に丹平製薬が創業の地である現在の心斎橋筋2丁目に建設した3階建てのビルで、1階にドラッグストアやハイカラな喫茶店が入り、当時のモダンな街・心斎橋筋を代表する建築物だった。
「丹平ハウス」の3階は展覧会場として使われ、ロボット洋画協会をはじめ当時の野心的なグループや作家たちの発表の場となっていた。また、昭和5年には同ビルに安井仲治、上田備山を中心に創設された丹平写真倶楽部が入り、その後の写真界をリードする前衛写真の拠点となり、「丹平ハウス」は大阪美術界の一大発信基地となっていった。
赤松洋画研究所は、当初午前部と午後部があり、赤松自身のほかに二男の赤松進をはじめ、教え子の松本鋭次、田川寛一らが講師をつとめた。赤松はこの研究所の開設と前後して大正12年に創立された大阪市立工芸学校図案科の講師もつとめていたため、同校の卒業生を中心に大丸、高島屋といった百貨店の広告デザイナーたちが研究所の夜間部に通ってきてはデッサンを学んだという。
赤松麟作(1878-1953)あかまつ・りんさく
明治11年岡山県津山市生まれ。幼いころに大阪に移り山内愚僊に師事した。明治30年に東京美術学校西洋画科選科に入学、黒田清輝に学び、在学中から白馬会に出品した。明治32年同科を卒業し、三重と和歌山で教員生活を送ったのち、大阪朝日新聞社に勤務した。その間、明治34年第6回白馬会展出品の「夜汽車」で白馬会賞を受賞。明治41年第2回文展で褒状を受けた。明治41年大阪に赤松洋画研究所を開設。また、関西女子美術学校長や大阪市立美術研究所で後進を指導するなど関西画壇の発展に尽くした。門下生に佐伯祐三らがいる。昭和28年、76歳で死去した。
大阪(106)-画人伝・INDEX
文献:洋画家たちの青春、明治の洋画、日本絵画・20世紀の草創