森狙仙(1747-1821)は、森如閑斎の三男として生まれた。兄に森陽信、周峰がいる。経歴は不明な点が多く、出生地に関しては主な活動地である大坂説のほか、西宮説、長崎説があり、生年に関しても延享4年のほか、寛延2年、寛延3年など諸説ある。
はじめ父に画の手ほどきを受け、ついで父の師とされる蝶楊堂(岡本)幽谷につき、さらに勝部如春斎に学んだと思われる。2人の兄とともに狩野派風の画を描いていたが、旧来の狩野派の画法にあきたらず、円山応挙に通じる写実的描写を試み、動物を主題にした写生画を確立した。
画業の前半期は、動物の毛並みなどを細やかに描き込む「毛描き」で表現していたが、後半期には幅広の筆を用いた大づかみながらも巧みな表現で動物たちを描いた。40歳頃にはすでに猿を描いて名があったと伝わっており、その猿図は「狙仙の猿」と称され人気を博し、贋作も多く出回ったという。
森狙仙(1747or1749or1750-1821)もり・そせん
延享4年(または寛延2年、または寛延3年)生まれ。生地は大坂説のほか西宮説、長崎説がある。森如閑斎の三男。兄に森陽信、森周峰。名は守象、字は叔牙。号は祖仙のちに狙仙。別号に如寒斎、霊明庵がある。蝶楊堂幽谷、勝部如春斎に学んだとみられる。寛政12年熊本藩主の大坂通行の際に召し出され「千年土竜」を写生した。文化4年には幕府の儒官柴野栗山の勧めに応じて祖仙から狙仙へと号の用字を改めた。文政4年死去した。
森春溪(不明-不明)もり・しゅんけい
名は有煌、字は仲光(または中禿)。俗称は勝宗、または勝二郎。号は春溪。森狙仙の高弟で、花卉翎毛を得意とした。一説には芙蓉様の印刻も巧だったという。
大阪(07)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇
近世の大坂画壇、近世の大阪画人