1935(昭和10)年は、全国的に喫茶店が大流行した年で、池袋西口にあった喫茶店「コティ」でも、画家や文士、学生たちが集まって、連日にぎわいをみせていた。その片隅で黙々と原稿を書いていたのが、沖縄出身の詩人・山之口貘(1903-1963)である。当時の山之口は、これ以下の弊衣はないというほどの「ぼろ」をまとい、周りから「貧乏まで売っている」といわれるほどの極貧ぶりだったという。
後年になって詩人として名声を得る山之口だが、青年時代は極貧のなかで生活していた。19歳で上京して入学した日本美術学校は仕送りがなく1ヶ月で退学。翌年には関東大震災に遭い、やむなく帰郷するが、そこで実家の破産に直面した。2年後に再度上京するが、定職を得ることができず、放浪生活を続けながら詩を書いていた。こんな無職・住所不定の山之口だったが、「コティ」で原稿を書いていた頃には、金子光晴らとの知遇を得て、やっと詩を発表する機会を得るようになっていた。
日本美術学校で山之口と同窓だった画家・南風原朝光(1904-1961)も、そのころ沖縄から再上京して池袋に住んでいた。南風原は、日本美術学校を卒業した翌年に結婚して東京に居を構えていたが、1933(昭和8)年に帰郷した折に、家族を沖縄に残して一人で上京、池袋に住みついていた。池袋では、毎晩のように「珊瑚」「梯梧」といった伝説の泡盛屋に通い、泡盛を痛飲しては、常連の画家や詩人たちと芸術論をたたかわせ、時には小柄ながらも空手経験者の腕前をみせつけていた。
当時の池袋西口界隈は、アトリエ付きの住宅が立ち並び、若い芸術家や画学生、貧乏文士たちが住みついていたことから、パリのモンパルナスになぞらえ「池袋モンパルナス」と呼ばれていた。そこには、自由を求め、創作に恋愛に情熱をそそぐ若き創造者たちが作りだした異空間が広がり、多くの日本を代表する芸術家が生み出されていった。
山之口と南風原は、同郷で歳も近く、親友と呼べる間柄で、戦後になり「池袋モンパルナス」が再建され、新たな美術運動の発信の場となっても、夜の池袋に通った。二人の「拠点」は、戦後まもなく開店して現在も続いている沖縄料理店「おもろ」で、ここで玄人はだしの琉球舞踊を披露したりもした。1961年に南風原が交通事故で急逝した際にも山之口はこの店を訪れ、友の死を呆然としながら知人たちに電話したことを追悼文に記している。そして、山之口もまたその2年後に病没することとなった。
南風原朝光(1904-1961)
1904(明治37)年真和志村字安里生まれ。1919年に沖縄第二中学を中退し、台湾で医業を営む兄の元に引き取られた。この後も、兄・朝保は年の離れた弟・朝光を支え続けた。翌1920年に上京し、朝保の知人だった彫刻家の横江喜純宅に寄寓し、以降、東京を拠点に画業を行なっていく。22歳の時に日本美術学校に入学、卒業後の1929年夏に東京美術学校在学中の名渡山愛順と那覇市の百貨店・円山号で二人展を開催。1932年には大城皓也と沖縄美術協会を創設、第1回展を神田三省堂画廊で開催した。卒業の翌年に結婚して東京に居を構えるが、1933年に帰郷した折に家族を沖縄に残して一人上京し、池袋に住みついた。終戦翌年の1946年に「琉球古典芸能団」を結成、九州各地の沖縄疎開者を慰問し、東京公演を行なった。1952年戦後初めて帰郷すると、沖展審査委員、芸能祭審査委員に就任。1960年には那覇市に劇場建設を計画し、翌年「とまり劇場」を落成させたが、同年、交通事故により、57歳で急逝した。
山之口貘(1903-1963)
1903(明治36)年那覇市生まれ。本名は重三郎。1917年沖縄県立第一中学校に入学。1922年日本美術学校に入学するが、1ヶ月で退学。1923年関東大震災に遭い帰郷、実家の破産に直面。1925年書き溜めた詩を携え、再度上京。1927年頃から山之口貘を名乗るようになった。1931年雑誌「改造」に詩を発表。1933年詩人の金子光晴に出会い、発表の場を得られるようになる。1938年詩集『思辨の苑』刊行。1940年『山之口貘詩集』刊行。1958年『定本 山之口貘詩集』刊行。同年沖縄に帰郷。1959年第2回高村光太郎賞を受賞。1963年、59歳で死去した。没後の1964年『鮪に鰯』刊行。
沖縄(19)-画人伝・INDEX
文献:池袋モンパルナス(宇佐美承)、池袋モンパルナスとニシムイ美術村、旅する画家・南風原朝光と台湾・沖縄、沖縄美術全集4