江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

八重山蔵元絵師・喜友名安信(毛裔氏安信)

八重山風俗図「蔵元前における祝賀」(作者不詳)沖縄県立博物館・美術館蔵

首里王府時代、久米島、宮古島、八重山の離島には「蔵元」とよばれる王府の出先機関があり、絵師たちはその蔵元に勤務し、さまざまな仕事をこなしていた。主な業務としては、蔵元館内の視察の際の記録、異国舶来航の際の異国船や異国人の記録、異国船との交渉の際の図による通訳の補助、貢納布のデザイン帳の作成などだった。

喜友名安信(毛裔氏安信)は石垣島に生まれ、首里の小波蔵安章に絵を学び、1891(明治24)年まで八重山蔵元絵師をつとめている。石垣市立八重山博物館に所蔵されている「八重山蔵元絵師画稿」のなかには、安信の作「牡丹図」が確認されている。安信の後任には甥の宮良安宣(毛裔氏安宣)が就き、安宣は最後の八重山蔵元絵師として7年間つとめた。

掲載の「蔵元前における祝賀」は、沖縄県立博物館・美術館が所蔵している「八重山風俗図」4点のうちの1点で、八重山で行なわれた祝賀会や運動会、式典などの情景を八重山蔵元絵師が描いたもので、1885(明治18)年から1890(明治23)年まで八重山島役所長をつとめていた西常央に献上された。

この絵の作者は確認されていないが、描かれた時期の八重山蔵元絵師は、喜友名安信しかおらず、ほかには助手的役割だったとみられる黒島孫正、山里得次がいたのみである。石垣市立八重山博物館で開催された「絵が語る明治の八重山」展の図録によると、この作品が当時の最高役職者への献上物であったことから「当代一の能画家として評価を得ている安信に声がかかるのが自然だろう」とし、喜友名安信が描いたものではないかと推測している。ただ、その跡を継いだ甥の宮良安宣の可能性も指摘している。

喜友名安信(1831-1892)
1831(天保2年)年石垣島登野城村生まれ。唐名は毛裔氏安信。1875年に絵画修業のため沖縄島に渡り、首里寒水川村の小波蔵安章に半年間学んだ。1891年まで蔵元絵師をつとめた。兄の喜友名安著も蔵元絵師だったが、早世した。八重山蔵元絵師画稿中に安信の作「牡丹図」が確認されている。弟子に黒島孫正、山里得次がいる。1892年、61歳で死去した。

宮良安宣(1862-1931)
1862(文久2)年石垣島登野城村生まれ。最後の八重山蔵元絵師。唐名は毛裔氏安宣。宮良安清の子。喜友名安著は伯父。喜友名安信は叔父。叔父である喜友名安信の後任として1891から1897年の間、蔵元絵師をつとめた。石垣市立八重山博物館所蔵の「八重山蔵元絵師画稿」は、1923年に自身の絵も含めた蔵元絵師の画稿百枚以上を沖縄研究家・鎌倉芳太郎に譲り渡したものである。同画稿中に安宣の作「松樹図」や「マーラン船の図」が確認されている。ほか、豊年祭のときの旗頭の制作も行なった。1931年、69歳で死去した。

黒島孫正(1848-1905)
1848(嘉永元)年石垣島大川村生まれ。喜友名安信に師事した。師と同門の山里得次とともに宮良殿内の板戸絵を作成した。書もよくした。1905年、57歳で死去した。

山里得次(不明-不明)
石垣島大川村生まれ。喜友名安信に師事した。師と同門の黒島孫正とともに宮良殿内の板戸絵を作成した。

沖縄(12)-画人伝・INDEX

文献:絵が語る明治の八重山展、よくわかる沖縄の美術、「琉球絵画」人名事典