琉球絵画は、13世紀に伝来した仏教文化に刺激を受けて発達したと考えられている。王国時代には、王府の行政機構に「貝摺奉行所」という部署があり、ここに絵師も所属して、漆器や着物の図案、室内装飾に携わっていた。この貝摺奉行所に所属せず、観賞用の絵画を描いた宮廷画家のはじまりとされるのが自了(1614-1644)である。自了(城間清豊、唐名は欽可聖)は、生まれつき耳と口が不自由だったが、19歳の時に画才を認められて宮廷画家となった。
自了の逸材ぶりを伝える話は多く残っている。「欽姓家譜」によると、尚豊王の即位式に琉球を訪れていた中国の冊封使・杜三策に、自了の絵を示して批評を求めたところ、中国の有名な画家に匹敵するとその画力を讃えたという。また、徳川家綱の誕生を祝い自了の絵を献上したところ、それを見た中橋狩野派の祖で鑑定にも優れていた狩野安信が、自了の筆力を絶賛し「もし自了が本土で生まれていたら、彼を友にしたであろう」と語ったという。
作品には「高士逍遙図」「松下三仙図」「仙人図」「陶淵明図」「竹林七賢」「野国青毛名場図」などがあったとされるが、現存していない。現在自了の作品として確認されているのは「白沢之図」(掲載作品)のみである。この図の主題となっている白沢とは、中国に伝わる想像上の聖獣で、人間の言葉を話し、有徳の王者の治世に出現するといわれている。額に1つ、腹に3つの眼を持っている。自了の絵について、沖縄のシュルレアリスムの草分けである山元恵一は「自了は日本的な気分の作品と支那的フィクションの双方を残して、彼の肩幅の広さをこのへんにも見せている」と語っている。
自了(城間清豊)(1614-1644)
1614(慶長19)年首里生まれ。唐名は欽可聖。城間清信(欽徳基)の長男。自了と号した。生まれつき聾唖だった。幼いころから多方面に才能を示し、画才に関しても優れていた。19歳の時に画才を認められて尚豊王の宮廷画家となり、自了の号を賜った。その後も引き続き尚賢王に仕えた。1644(正保元)年、30歳で死去した。
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