明治以降、岡山からは日本の近代洋画史において重要な仕事をした多くの洋画家を輩出している。その中で先駆者とされるのが、堀和平(1841-1892)と前田吉彦(1849-1904)である。菅原道真公を写実的に描いた堀和平の「天神像」は、岡山最初の油絵といわれている。彼らは、高橋由一、川上冬崖、五姓田芳柳といった我が国の初期洋画家たちと同様に、乏しい知識を手掛かりに、暗中模索のなか、見よう見まねで油絵の技法の習得に取り組んだ。堀と接した洋画家には、同じ総社出身の満谷国四郎、吉富朝次郎がおり、鹿子木孟郎も和平の描く油絵を熱心に見ていたという。和平は、鹿子木少年の熱心さに惹かれ、養子にしたいと申し入れたこともあったという。一方の前田は、神戸で美術教育に尽力し、神戸画壇の草分けとなった。
堀和平(1841-1892)
天保12年総社西宮本町生まれ。堀和助安忠の四男。本名は和平安郷。実家は志保屋と号して酒店、質屋などを営んでいた。長男安道は病弱のため学問の道に進み、二男と三男は早世したため、和平が家業を継いだ。先進性に優れ、行動的な性格から実業家としても活躍し、仕事の関係でしばしば訪れていた神戸で、外国人から見よう見まねで油絵の技法を学んだという。総社に帰ってから自宅2階を改造し、ペンキを塗って画室を造り本各的な油絵制作を開始した。和平の画業については不明な点が多いが、菅原道真公を写実的に描いた「天神像」が、岡山最初の油絵とされている。洋画のほか、杏邨という号で日本画も描いている。明治24年、貿易商になるため神戸に進出したが、翌年、52歳で死去した。
前田吉彦(1849-1904)
嘉永2年高梁川端町生まれ。備中松山藩士・前田長兵衛の三男。同藩の野間凸渓に日本画を学び、のちに神戸に出た際に長崎から来ていた木村静山の描く洋風画に興味を示し、ほとんど独学で洋画の技法を習得した。明治11年から神戸師範学校で教鞭をとり、主に鉛筆画を教えた。明治14年の第2回内国勧業博覧会に「夕陽の景」と題して油絵を出品、明治33年神戸美術協会によって神港倶楽部で開催された第1回美術品展覧会に金箔の衝立に油絵具で描いた「静の舞」を出品するなど、神戸洋画壇の草分けとして活躍した。明治27年頃に神戸市池田の妙楽寺に入り、蟻然もしくは蟻禅と称するようになった。「画法階梯」「小学用画階梯」「小学用画階梯虫魚之部」「画学臨帖」など多くの図書教科書を著し、美術教育に尽力した。明治37年、56歳で死去した。
岡山(26)-画人伝・INDEX