江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

福田平八郎の師から弟子になった首藤雨郊

首藤雨郊「冬の日の叡山」大分県立美術館蔵

近代日本画の大家・福田平八郎(1892-1974)の才能をいち早く見出し、絵画の道に導いたのは、当時小学校の教諭をしていた首藤雨郊(1883-1943)である。首藤は、大分県師範学校を卒業後、大分師範付属小学校で訓導をしていたが、その時に下宿していたのが福田平八郎の家だった。当時の平八郎は、これといって特徴のない平凡な少年だったというが、首藤は、平八郎の非凡な才能を見抜き、絵の指導をし、美術学校へ行くことを強く勧めた。平八郎は当時を回想して「先生の部屋で先生の勉強ぶりを見て画道に進むことになった」と話している。その後、平八郎は大分中学を3年で中退し、中学2年修了で入学資格のある京都市立絵画専門学校の別科に進み、翌年京都市立美術工芸学校に入学した。

首藤と平八郎の関係は、その後も続き、首藤が小学校を休職して京都市立絵画専門学校に入学した時は、銀閣寺近くの農家に間借りして平八郎と共同生活を送っている。首藤は図画教師の資格を取り、同校を1年で退学して帰郷することになったが、平八郎は若き日のある一日を回想して「島原に外人旅行家が公開飛行を行なったのもこのころで、先生と私は銀閣寺からの往復二里余を歩いて見に行った。ところが入場料の二十銭の金が無く、外から見たが肝腎の飛行機の発着は幕が張り巡らされて見ることが出来なかった。帰途腹がペコペコになって神楽坂の焼芋屋で二銭宛出し合って焼芋を買って食ったが今でもあのうまかった味は忘れられぬ」と親密な共同生活ぶりを語っている。

教育者として優れていた首藤だったが、画家としての情熱が衰えることはなく、42歳の時、教師をやめて画家としてやり直す決意を固め、再度京都に向かった。その時に師となったのは、かつての教え子・福田平八郎だった。当時、平八郎は大正10年、11年と連続して帝展で特選を取り審査員に推挙されており、京都市立絵画専門学校では助教授をつとめていた。かつての師弟関係がまったく逆転したわけである。しかし、平八郎は「先生、先生」といって首藤を指導し、首藤はうれしそうにかつての教え子の指導を受けていたという。二人の関係を知る日本画家の溝辺有巣は「福田先生と首藤先生の関係は親子か兄弟のようだった。よそ目にもうるわしく、うらやましかった」と語っている。

平八郎の成功は、首藤にとっても喜びであり、誇りだったと思われる。首藤は「九方皐」という別号をよくつかっていたが、これは、伯楽が子馬を見出して育てたら天下の名馬になったという故事から取ったものである。

二人の関係は生涯続き、万寿寺にある首藤の墓には、平八郎の字で「首藤先生墓」と刻まれている。これは首藤が晩年最も崇拝していた田能村竹田の墓を模したもので、平八郎が、竹田の墓の写真を参考に、篠崎小竹の筆に似せて書いたものとされている。

首藤雨郊(1883-1943)
明治16年大分市生まれ。旧姓岐津、本名は積。別号に九方皐がある。明治38年大分県師範学校を卒業、県内の小学校や大分県師範学校の訓導を勤めた。休職して京都市立絵画専門学校に学んだ後、復職して大分県立臼杵中学校、大分県師範学校などの図画教員になった。その後、画道に専念しようと退職して再び京都市に転居した。第6回帝展で初入選。以後、第9回、第11回帝展に入選した。四条派風の作品を描いていたが、晩年は深く田能村竹田に私淑し、南画の近代化を目指した作風へと変わっていった。昭和18年、61歳で死去した。

大分(30)-画人伝・INDEX

文献:雨郊・首藤積、大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、大分県立芸術会館所蔵名品図録