江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

歌川派の開祖・歌川豊春はやはり豊後臼杵出身なのか

歌川豊春「観梅図」大分県立美術館蔵

歌川豊春は、浮世絵の一大流派である歌川派の開祖にあたり、門下からは、初代豊国や豊広らが出て、さらにその画系からは国貞、国芳、広重など傑出した絵師を多く輩出している。豊春の作画活動においては、初期には春信風の美人画を描いていたが、安永頃に西洋の遠近法透視図法を応用した「浮絵」の作品を発表し、浮絵再興の絵師としても知られている。天明期以降は肉筆画に専念し、その作品は内外から高い評価を得ている。

豊春の経歴や活動については不明な点が多く、出生地に関しては、江戸、但馬豊岡、豊後臼杵の3説がある。文献は少ないが、もっとも早く出ているのが『浮世絵考証』で、式亭三馬の書き加えのなかに「但馬屋ト云」という記述がある。これは出生地を表わしているとはいえないが、遅れて出版された『无名翁随筆』の中に、これを参考にしたと思われる豊春に関する記述があり、「但馬産ト云」及び「江戸の産也」とある。

「但馬産ト云」に関しては、豊春の俗称が但馬屋庄次郎であったことから、「産」と「屋」を写し間違ったともとれる。また、「江戸の産也」については、当時から江戸は人が集まる場所だったことから、早い時期に江戸に移り住んでいた場合も、「産」と記述されるかもしれない。以上のことから、豊春は「なんらかの事情で江戸に出て但馬屋の養子となった」と考えられなくもない。

そこで、臼杵出身説をみてみると、初出は関根只誠著『名人忌辰記』で、明治27年発行の同書には「豊春は豊後臼杵の人」と記されている。以降、豊春を臼杵出身と記述する文献が多くなっているが、その典拠となる史料は明らかにされていない。具体的な資料を提示して推測したのは、臼杵の郷土史家・久多羅木儀一郎で、上記文献にある『臼杵史談』の中で仮説を展開している。

臼杵には資料とともに口伝が残っており、そこから久多羅木が豊春の前身と推測したのは、豊後臼杵藩主稲葉家に仕えた土師権十郎という人物である。権十郎の家系は代々絵師で、祖父の土師元雪、父の土師善八、弟の田原與三郎らの作画活動は確認できている。権十郎の活動を示す資料はないが、稲葉家に伝わる『宝暦以来小侍部分明細記』によると、権十郎に関する一文の中に「明和元年申四月五日於/江戸欠落」との記載がある。この「江戸欠落」を「江戸に行ったため家系図から除外」と解釈すると、権十郎はなんらかの事情で家を出て江戸に行ったことになる。これは、地元に残る豊国に関する口伝で「豊国は、描いてはならない画を描いたため、勘当となって江戸に出たが、のちに天下に謳われる画師となった」という話とよく合致しており、言い伝えているうちに豊国と豊春を混同したと解釈できなくもない。

また、豊春と臼杵を確実に結びつけるものとして掲出の「観梅図」がある。この作品は臼杵藩ゆかりのもので、力のこもった豊春の代表作ともいえる傑作である。久多羅木はこの作品を描いた時の豊春の心境を推測して、「この幅はもと臼杵藩の御納戸方であった梅村太兵衛良昌が、藩侯より拝領して、同家に伝わったものであるが、これが藩侯の手許にあったことは、想うに豊春が一家をなした後、若かりし日の不首尾を追懐し、名誉回復の一端として、旧主へ献納したものではなかろうか」としている。

以上、臼杵出身説寄りの推測をまとめたが、出身地を特定できる文献はいまだ出ていない。

歌川豊春(1735-1814)
享保20年生まれ。名は昌樹、俗称は但馬屋庄次郎、のちに新右衛門と改めた。別号に一竜斎、潜竜斎、松爾楼などがある。若年時に京都で鶴沢探鯨に学んだとされる。明和初年頃には江戸に転居して鳥山石燕についたとも、西村重長についたともいわれる。安永頃から「浮絵」に傾注するが、天明期以降は肉筆画制作に専心するようになる。寛政年間には日光東照宮修復にも参加している。歌川派の祖とされ、役者絵、劇場風景、江戸名所風景などの版画のほか、肉筆美人画を数多く描いた。門下からは、豊広、豊国が出て、さらのその門下から広重、国貞、国芳らが出て、歌川派は明治時代までも続いた。文化11年、78歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(歌川豊春)

大分(22)-画人伝・INDEX

文献:郷土史杵築第138号「歌川豊春と臼杵」(著者:古賀道夫)、浮世絵芸術167号、臼杵史談第7号「歌川豊春及び同豊国について」・臼杵史談第26号「歌川豊春の臼杵出身地説続考」(著者:久多羅木儀一郎)