本草学とは、中国医学に付属した薬物学で、薬を自然界から入手する以外に方法がなかった時代に、自然界で何が薬として利用できるのかを研究する学問である。奈良時代以前に中国から伝えられたとされ、当初は中国の本草学を翻訳、研究する形だったが、江戸時代に入ると実際に日本各地をめぐって、動植物などを詳しく観察、記録するという実物調査「採薬」が行われるようになった。
宇佐生まれの賀来飛霞(1816-1894)は、美濃の飯沼慾斎、尾張の伊藤圭介とともに、幕末日本の三大本草学者のひとりに数えられている。飛霞の本草研究の特筆すべき点は、全国各地の野山をめぐり歩いて動植物などを詳しく観察して描いた色鮮やかな写生図にある。従来の本草学では、薬用にならない根を描くことはなかったが、飛霞は、掲載作品「ヤブラン写生図」のように、その有用性とは関わりなく根を描き、また茎の部分に取り付いたサナギを描いたりしている。
画の師である南画家の十市石谷は、飛霞の写生図について「天性の才能を持っており、草花を描かせると自分もまったく及ばない」と高く評価したと伝わっている。
賀来飛霞(1816-1894)
文化13年宇佐郡佐田村生まれ。医師で本草学者。賀来有軒の三男。名は睦之、字は季和、通称は睦三郎。1歳の時に父を亡くし、5歳の時に帆足万里にあずけられ、18歳まで万里の下で医学、薬学、書を学んだ。また、画法を十市石谷に学び、本草学を志した。万里の門を辞した後は、安心院の佐田村で医院を開業していた異母兄の佐之を手伝うからわら医学や本草学を究め、兄が島原藩医になって転出してからは、飛霞が地元で医業にあたった。明治になってからは、宇佐郡立四日市病院の院長をつとめたあと、明治10年に東京大学小石川直物園の取調掛に任ぜられ、同僚の伊藤圭介とともに直物の調査にあたった。生涯の足跡は、九州、四国、東北、北陸、小笠原諸島へと及び、幕末期における三大本草学者のひとりと称された。『高千穂採薬記』『杵築採薬記』など多数の著書がある。明治27年、78歳で死去した。
賀来佐之(1799-1857)
寛政11年豊後高田町生まれ。医師で本草学者。賀来有軒の長男。賀来飛霞の兄。通称は佐一郎、字は公輔、諱は毅篤、号は百花三荘。文化10年、14歳にして帆足万里に入門して医学を学び、杵築で医院を開業したが、文政8年、長崎に行きシーボルトについて洋医を修めた。帰郷後は安心院の佐田村で医院を再開したが、二豊の間での洋医としては第一号だった。天保13年、島原藩医となり、同地において薬園の開発に尽力するなど本草学にも意を用い、また嘉永2年には牛痘種法を実施して医につとめた。『新注傷寒論』『治痘新書』などの医学書の他に『本草学書』『ウィルデノウ本草説』など本草関連の著書も多い。安政4年、58歳で死去した。
大分(20)-画人伝・INDEX
文献:大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、幕末の本草学者 賀来飛霞展、生誕200年記念賀来飛霞展