田能村竹田(1777-1835)が正統南宗画法によって本格的に南画を描き始めた年には、すでに与謝蕪村、池大雅は没しており、南画では浦上玉堂、岡田米山人、青木木米らが作画を行なっていた。そこに、次世代として浦上春琴、岡田半江、頼山陽らが出現、まさに南画の隆盛が始まろうとしていた時だった。そして、二豊(大分県)の地においても、竹田の出現を得て、豊後南画が開花することとなるのである。
この時期は1810年代から1840年代に設定できるが、この間、二豊の地には竹田を核として、各地から優れた南画家が出現した。竹田の出身地である岡をはじめ、日田、府内、鶴崎などは竹田がたびたび訪れ、中津、杵築にも『豊後国志』編纂のため訪れている。それらの地の南画家たちは、竹田から直接、間接の感化を強く受けて画技を進めている。直接の門人としては、高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入、後藤碩田らがいる。
二豊の地だけでなく、各地を旅した竹田は、その芸術生活において、読書や旅の重要性を説いている。中国の文人・董其昌の「万巻の書を読まず、万里の路を行かずんば、画祖とならんと欲するも、其れ得べけんや」という言葉を引き、よい絵を描くには、多くの書物から得た知識や、旅を通しての体験や見聞が必要とし、それを実践した。竹田の画業は、旅と各地の文人との交流の積み重ねの上にあるといっていい。
竹田の旅の始まりは25歳の時だった。寛政10年、藩命により編纂していた『豊後国志』を幕府に納める準備のため、初めて江戸に向けて旅立った。途中、大坂で木村蒹葭堂に、江戸で谷文晁と面識を得て、翌年帰藩した。享和4年、28歳の時には熊本に遊学、高本紫溟、村井琴山を訪ね、教えを受けた。そして翌年、29歳で長崎を振り出しに京都に向かい、帰ってきたのは31歳の時だった。その間、儒者・村瀬栲亭に学んだほか、中島棕隠、浦上玉堂、岡田米山人、上田秋成らと親しく交流した。
35歳で再び京坂遊歴の旅に出て、途中備後に菅茶山を訪ねてから、大坂に行き、そこで初めて頼山陽に会った。竹田と山陽はその後も親しく交流し、生涯の友としてお互いを刺激しあう仲となった。そして、紀州に野呂介石を訪ね、半年後に国に帰った。その年岡藩の領内で百姓一揆が起こり、竹田は二度にわたり藩政に意見を述べたが受け入れられず、37歳で藩から退隠することとなり、ここから竹田の本格的な作画活動が始まる。
文政6年、47歳の時に長男太一と門人高橋草坪を伴って京都を訪れ、頼山陽、雲華上人、浦上春琴、青木木米、岡田半江、小石元瑞、篠崎小竹ら多くの文人墨客と交遊し、京都・大坂に1年ほど滞在した。文政9年、長崎に遊び、1年あまり滞在し、木下逸雲、鉄翁祖門らと交遊するとともに清人・江芸閣らと詩文書画の交わりをし、中国から舶載された書画によって眼識を高めた。翌10年に熊本、鹿児島を巡って帰郷した。文政11年以降もたびたび上方とを往復し、京都・大坂の文人たちと交流した。
天保3年、豊後竹田を出発し、大分、別府、立石、宇佐などを経て中津に入った。そこに滞在中に、頼山陽の訃報を聞いた。天保5年、58歳の時に大坂で新しい友人・大塩平八郎と会い、意気投合した。いったん帰郷し、翌天保6年に再び上方を訪れたが、病を得て、大坂において59歳で死去した。
田能村竹田(1777-1835)
安永6年豊後国竹田(現在の大分県竹田市)生まれ。岡藩医師・田能村碩庵の二男。幼名は磯吉、のちに玄乗、さらに行蔵。名は孝憲、字は君彝。居宅を竹田荘・墨荘と称し、その室に花竹幽窓、緑苔窩、補拙廬、雪月楼、秋声館などと名付け、それらを号とした。ほかに別号として九畳仙史、九畳外史、九峰衲子、随縁居士、紅荳詞人、六止草堂、三我主人、藍渓釣徒、藍渓狂客、西野小隠などがある。家業は代々藩医で、兄周助死去のため18歳で医業を継いだ。幼い時から藩校・由学館に学び、画を同郷の画人・淵野真斎、渡辺蓬島らに学んだ。寛政10年、22歳の時に藩命により医業を廃し、由学館の儒員となり、唐橋君山に従い『豊後国志』の編纂に携わった。のちに村瀬栲亭の門に入り詩文を学び、浦上玉堂、岡田米山人らの知遇を得た。文化8年に岡城下で起こった農民一揆のことから政治を忌避し、文化10年隠居、この頃から本格的に南宗画法による作画を始め、以後京都・大坂など各地に遊歴し、文人と交遊、詩書画に高い評価を得て画名が高まった。『山中人饒舌』『竹田荘師友画録』など多くの著書がある。天保6年、59歳で死去した。
大分(9)-画人伝・INDEX