江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

豊後岡藩絵師・淵野真斎

淵野真斎「太公望図」大分県立美術館蔵

竹田市域の大部分を支配した岡藩は、江戸後期から近代にかけて田能村竹田をはじめ多くの画人を輩出した。竹田の初期の師とされる淵野真斎(1760-1823)は藩絵師をつとめ、真斎を初代に淵野家は幕末まで岡藩絵師を四代つとめた。真斎の子・天香は、大坂で岡田米山人に学び帰郷、さらに谷文晁に学ぼうと江戸に出る途中29歳で没した。天香が若くして没したため、娘婿の香斎が跡を継ぎ、さらに香斎の養子・桂僊がその跡を継いだ。桂僊は、江戸、大坂、京都に遊び、技を進め、27歳で家に帰り藩絵師となった。淵野家は、四代桂僊のころには「画道家筋」と称されるようになった。

淵野真斎(1760-1823)
宝暦10年生まれ。岡藩絵師。諱は世龍、字は玉鱗、通称は三郎兵衛、蘭渓。別号に嶰谷、檉園、雲山叟、棠園などがある。岡藩士・淵野宇吉仲業の三男。幼いころから画を好み、画家になろうとしたが、藩内に学ぶべき師がなく、外遊して学ぼうとしたが父が許さず、父は真斎に嫁をとらせたが、家を出て嫁をかえりみなかったという。たまたま備中の画人・淵上旭江が来遊した際に、渡辺蓬島とともに学び、画技を深めた。その画技上達への姿勢は、渡辺蓬島と並ぶ岡藩における新しい絵画学習の先駆けとして、田能村竹田らに影響を与えた。34歳の時に武家奉公人として岡藩に召し抱えられ、江戸に出て渡辺玄対や笹山養意に学び、画技を進め、藩絵師となった。藩命による主な作品は『豊後国志』の《八郡絵図》、《三佐権現御寄附絵馬》《三宅山御鹿狩絵巻物》などがある。文政6年、64歳で死去した。

淵野天香(1797-1825)
寛政9年生まれ。岡藩絵師。淵野真斎の長男。名は世麒、字は玉麒。別号に豊国などがある。幼いころから画を好み、父について学んだ。田能村竹田と親しく、竹田門下と自称した。文政元年に絵図方勤務を命じられたが、画技を深めるために文政4年に脱藩し、江戸の谷文晁に学ぼうと家を出た。途中下関で数年過ごした後、広島滞在中に病のため、文政8年、29歳で死去した。

淵野香斎(1794-1835)
寛政6年生まれ。岡藩絵師。淵野真斎の女婿。諱は成教、通称は賢平。別号に弘斎がある。実父は府内町市兵衛で町絵師だったと思われる。文政5年に御目見以下坊主主格で召し出され、すぐに藩絵師として活動した。前年の淵野天香脱藩を受けたものだと思われる。画技は田能村竹田が自分の絵の批評を求めるほどに巧みだったという。天保6年、42歳で死去した。

淵野桂僊(1814-1881)
文化11年生まれ。岡藩絵師。岡藩士・宗路芳の子。のちに淵野香斎の養子になった。名は定、字は子静、通称は龍斎。別号に慶川、淵定、桂仙がある。8歳で淵野香斎の養子となり、香斎に従って画を学んだ。19歳の時に、江戸で岡本秋暉に画を学び、さらに京都、大坂で遊び、小田海僊に学んで画技を進めた。27歳で帰郷し、藩絵師となった。明治維新後、藩絵師が廃止になると各地を遊歴した。晩年四国を訪れた際、伊予・谷世範の家で病み、明治4年、57歳で死去した。

大分(4)-画人伝・INDEX

文献:岡藩の絵師たち-淵野家と渡邊家-、大分県史