豊後三賢の一人にかぞえられる儒者・帆足万里(1778-1852)らを輩出した日出藩は文教の地として知られるが、その基礎は、第三代藩主・木下俊長(1648-1716)の学問奨励に由来するとされる。俊長は、民衆に倹約を促し、殖産に尽力するとともに、文武両道を奨励した。自らも深く学問を好み、関東学士・人見竹洞を招くなどして藩文教の興隆を図った。また、詩書を学び、画は狩野常信に師事した。さらに、画才を認めた藩士には藩命により狩野派の絵師につけて学ばせた。
日出藩士・利光常尹(不明-不明)は俊長に画才を認められ、命を受けて狩野常信に学んだ。画名は諸侯衆士の間に広く知られていたという。遺作は少ないが、日出町大神の宝積寺に今寺宝として極彩狩野派密画十数幅が残されている。松田周修(不明-1730)も俊長に画才を認められ、狩野周信について学び、一家をなした。また、日出藩絵師は、江戸に住み狩野師信に師事した安藤梅峯(1777-1825)がつとめた。
木下俊長(1648-1716)
慶応元年生まれ。日出藩第三代藩主。幼名は千勝、のちに主計。諱は俊長。大年、豊大年、江北散人などと号した。姓は豊臣。日出中興の名君と称された。文教・殖産に力を用い、自らも詩文、画を学んだ。学問を好み、関東学士・人見竹洞を招いて藩文教の興隆を図り、よく江戸藩邸・観蘭亭に竹洞を招いては詩書を学び、狩野常信に師事して画を修めた。日出松屋寺に千体観音が残っている。享保元年、69歳で死去した。
木下俊泰(1729-1768)
享保14年生まれ。日出藩第九代藩主。第四代木下俊量の第四子。藩務のかたわら狩野派の画をよくした。明治5年、40歳で死去した。
安藤梅峯(1777-1825)
安永6年生まれ。日出藩絵師。冨田石見守源吉盛の三男。名は圀儀。別号に真龍斎がある。幼いころから画を好み、のちに安藤をついで江戸に住み、狩野師信に学んだ。文政8年、49歳で死去した。
利光常尹(不明-不明)
日出藩士。通称は伝右衛門。藩主・木下俊長に画才を認められ、命を受けて狩野常信に学び、画名は諸侯衆士の間に広く知られていたと言われる。享保12年、日出若宮八幡宮に「項羽」「辨慶」の図を奉納したと伝わるが現存していない。大神軒ノ井の宝積寺に大幅の仏画が残っている。
松田周修(不明-1730)
日出藩士。通称は新次左衛門。別号に素軒がある。藩の目付・武頭などをつとめた。藩主・木下俊長に画才を認められ、狩野周信について学んだ。日出若宮八幡宮に「蜀三傑ノ図」「雲龍ノ画」「黄石公張良ノ図」などを奉納したと伝えられるが現存していない。享保15年死去した。
山本玄洞(不明-1900)
日出藩士。家は代々木下家の衣紋職。宇喜田新平の長男。幼名は栄次郎、その後は珪作。諱は俊晴、字は玄洞。観海堂と号した。山本家をついでのちに安来ともいった。幼いころ大石江北に書を学び、その後、府内藩の二代木崎隆川に画を学び、狩野派の絵師になった。仏像、人物、山水などをよくした。明治33年死去した。
大分(3)-画人伝・INDEX
文献:大分県画人名鑑、暘城人物伝、大分県立芸術会館所蔵作品選図録