江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本洋画の揺籃期に多くの洋画家を育てた小山正太郎

小山正太郎「濁醪療渇黄葉村店」ポーラ美術館蔵

越後の長岡藩医の家に生まれた小山正太郎(1857-1916)は、はじめ政治家を志して13歳で上京し、働きながら学んでいたが、幼いころから関心があった絵画への想いを断ち切れず、上京の翌年、川上冬崖の聴香読画館に入門した。塾での成績は優秀で、1年で塾頭になった。

明治9年、西洋美術の教育機関として明治政府によって創設された工部美術学校に入学。同校には、各画塾から気鋭の若者たちが集まり、聴香読画館からは、小山をはじめ松岡寿中丸精十郎らが入学し、本場イタリアから招聘されたフォンタネージのもと、本格的な油彩の技術を学んだ。

小山の成績はここでも優秀で、早くから助手をつとめていたが、明治11年のフォンタネージの帰国を機に同校を去り、浅井忠らと洋画研究所「十一会」を組織する。この研究所を拡充する形で明治20年に開設されたのが、青木繁坂本繁二郎ら近代日本洋画史を彩る画家たちを輩出した小山の画塾「不同舎」である。

洋画教育に奔走する小山だったが、明治10年代の中ごろからは、フェノロサや岡倉天心ら日本美術復興を唱える国粋派による洋画排斥運動が激化しており、昭和20年に開設され天心が初代校長となった東京美術学校には西洋画科が設置されなかった。

洋画の将来に危機感をたかめた小山は、明治22年に、浅井忠、松岡寿、山本芳翠原田直次郎らと、わが国初の洋画美術団体「明治美術会」を創設し、洋画擁護派の中心的存在として活動した。

その後、東京美術学校騒動で天心が学校を去り、明治29年、同校に西洋画科が新設されたが、西洋画科教授となったのはスランス帰りで洋画新派の黒田清輝だった。旧派の小山は高等教育の傍流に追いやられることになったが、東京高等師範学校などの初等中等の図画教育の場で活動し、美術教育家として大きな足跡を残した。

小山正太郎(1857-1916)こやま・しょうたろう
安政4年長岡生まれ。長岡藩医・小山良運の長男。藩校崇徳館に学び、11歳の時に戊辰戦争に従軍した。明治4年上京、翌年川上冬崖の聴香読画館に入った。明治9年工部美術学校に入学しフォンタネージに師事、翌年同校の助手となった。明治11年フォンタネージの帰国を機に同校を退学し、浅井忠らと「十一会」を結成、この会を拡充して明治20年に画塾不同舎を開設する。明治12年、出来たばかりの東京師範学校の図画教員となり、また文部省の図画調査会委員や図画教科書編纂委員もつとめた。明治22年、浅井忠、松岡寿らと明治美術会を創立。明治33年ヨーロッパ各国を歴遊。明治40年に文展が創設されると審査員をつとめた。大正5年、60歳で死去した。

新潟(27)-画人伝・INDEX

文献:新潟の絵画100年展、新潟の美術、越佐の画人、新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)、越佐書画名鑑 第2版