江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

帝展に対抗して会期を合わせて美術展を開催し、実験的な日本画に挑んだ尾竹竹坡

左:尾竹竹坡「天下廻り持」東京国立近代美術館蔵
右:尾竹竹坡「失題」東京国立近代美術館蔵

新潟市に生まれた尾竹竹坡(1878-1936)は、4歳で笹田雲石に師事して南画を学び、13歳の時に、兄の越堂を頼って弟の国観とともに富山に移り、18歳で上京するまで売薬版画の下絵や新聞挿絵の制作に携わった。

上京後は川端玉章のもとで学び、日本美術院の研究会にも参加して岡倉天心のもと研鑽に励んだ。天心に高く評価されていたが、国画玉成会の結成にあたり、審査員指名の席で天心と対立して同会を除名になり、これを境に日本美術院から距離を置くようになった。

その後は、松本楓湖の門下生を中心に結成された新派の研究団体・巽画会に終身会員として参加し、この会を舞台に活動した。明治40年に文展が開設されると、第1回展で入選を果たし、第4回展、第5回展で当時最高賞だった2等賞を連続して受賞、一躍画壇の寵児となった。

しかし、竹坡の受賞に関しては旧派から反発があり、旧派系審査員4名の辞職という事態にまで発展した。さらに無鑑査出品だった第6回展では、予定していた六曲一双屏風3点に加え、大画面の六曲一双屏風3点を追加して出品し、再び批判にさらされることになる。これを機に文展に出品規定ができたといわれる。

そして大正2年の第7回展では予想外の落選に見舞われ、これを機に画風の模索をはじめ、実験的な作品を描くようになった。大正4年には美術界の刷新を叫んで、唐突に衆議院選挙に立候補するが落選、それに伴う借金から売り絵を濫作し、その後の人生に暗い影を落とすことになる。

文展への出品はその後も続けたが、大正7年に文展が解消され翌年から帝展が始まると、帝展の会期に合わせて門下生とともに八火社展を開催して帝展に対抗したが、それも3回展が最後となった。その後は日本画に限らない創作活動をはじめ、洋画、彫刻はもとより、玩具の販売、少年少女向けの書籍の出版、劇団の創設なども企画していたという。

大正13年、47歳の時にそれまでの画風を一転させて写実的な日本画を第5回帝国に出品し入選を果たした。その後も帝展に出品したが、晩年は活躍の場に恵まれなかった。

尾竹竹坡(1878-1936)おたけ・ちくは
明治11年新潟市生まれ。尾竹国石の四男。名は染吉。明治14年南画家の笹田雲石に手ほどきを受け、明治29年、18歳の時に上京して児童文学者の高橋太華のもとに身を寄せたのち、川端玉章に師事した。また、小堀鞆音、梶田半古にも大和絵を学んだと伝わっている。明治30年から日本美術協会展に出品。明治33年パリ万国博覧会に出品。日本美術院の研究会にも参加し、日本絵画協会と日本美術院が合同で開催した共進会で受賞を重ねた。明治40年第1回文展に入選。明治42年第3回文展で3等賞、第4回文展で2等賞、第5回文展で2等賞を連続受賞した。以後、文展・帝展に出品した。大正4年衆議院選挙に立候補したが落選した。昭和11年、59歳で死去した。

尾竹越堂(1868-1931)おたけ・えつどう
慶応4年越後国蒲原郡(現在の新潟市)生まれ。尾竹国石の長男。尾竹竹坡の兄。名は熊太郎。幼いころから画に親しみ、明治18年に創刊された「絵入新潟新聞」に国雪の号で挿絵を描いた。越中富山に移って売薬版画の下絵を描いていたが、明治31年の大火で類焼したため大阪に移り、その後上京した。東京では小堀鞆音に師事して文展に出品したり、教科書の挿絵を描いたりした。昭和6年、64歳で死去した。

尾竹国観(1880-1945)おたけ・こっかん
明治13年新潟市生まれ。尾竹国石の五男。尾竹竹坡の弟。名は亀吉。幼いころから画才を示し、兄越堂とともに富山に移り、のちに上京して小堀鞆音に歴史画を学んだ。また、文部省教科書の挿絵を描いたりした。17歳の時に日本美術協会展で銅賞を得て、その後、日本美術院展、歴史風俗展、内国勧業博覧会などでも受賞を重ねた。第3回文展で2等賞、第5回文展で3等賞を受賞するなど初期文展で活躍した。昭和20年、66歳で死去した。

新潟(24)-画人伝・INDEX

文献:生誕140年尾竹竹坡展、新潟の絵画100年展、記憶に残る新潟の画家、新潟の美術、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版