越後国水原近辺(現在の新潟県阿賀野市)に生まれた池田孤邨(1803-1868)は、10代後半頃に江戸に出て酒井抱一の内弟子となった。抱一門下では、鈴木其一(1796-1858)と並ぶ高弟のひとりとされるが、其一が一派を形成して近代にまでその足跡を残したのに対し、孤邨の画業の全容を見渡す研究は進んでいるとはいえず、その生涯も不明な点が多い。
孤邨が生まれた当時の水原は代官所のおかれた幕領地で、越後有数の米どころとしても知られ、江戸や京都から訪れる文人も多く、孤邨が江戸に出る契機になったのも、亀田鵬斎をはじめとした、越後を訪問した江戸の文化人が関与していたと考えられる。
また、越後出身の骨董商・頚城久蔵(九皐庵九甲)も、孤邨が抱一門に入るきっかけをつくったと思われる。九甲は越後から江戸に出て抱一宅に滞在するなど親交が深く、この九甲の息子がのちに孤邨の弟子となる野澤堤雨(1837-1917)であることから、九甲が孤邨に抱一への入門をすすめたのではないかと推察されている。
孤邨が江戸に出た時期は定かではないが、文政9年に孤邨が描いた「墨画川遠望図」に抱一が寄せた賛の内容からみて、24歳頃には抱一の信頼を十分に得ていたことがうかがえることから、入門は文政年間前期だと考えられている。
内弟子として抱一の住居「雨華庵」に住み込んでいたとみられるが、文政11年の抱一没後はそこを離れ、近隣に住んでいた其一とも距離を置いていたと思われる。その後の足取りについては不明確な部分も多いが、30代半ば頃から一時深川冬木町に住み、40代後半には両国久松町に居を構え、没年まで過ごした。
その間の制作としては、光琳画風に傾倒する一方で水墨を用いた山水図や物語絵も制作するなど、幅広い活動を行なっているが、深川時代の作品は関東大震災で多くを失ったと伝わっている。残された作品が其一に比べて少なく、作品ごとに大きく作風が異なる傾向にあることが、研究が進まない要因のひとつとされている。
安政5年に7歳年長の其一が没してからは、そのあとを受けて、光琳、抱一の後継者として意欲的に活動し、63歳の時に、師の著した『光琳百図』に倣って『新撰光琳百図』を刊行、その翌年には『抱一上人真蹟鏡』を出版した。
池田孤邨(1803-1868)いけだ・こそん
享和3年北蒲原郡水原近辺(現在の阿賀野市)生まれ。池田藤蔵の子。名は三信、字は周二、通称は周次郎。別号に秋信、蓮庵、画戦軒、冬樹街士、煉心窟、舊松軒、自然庵などがある。画家を志して若くして江戸に出て、酒井抱一の内弟子となった。深川冬木町に住み、その後両国久町に定住した。師が著した『光琳百図』に倣って、元治元年に『光琳新撰百図』を刊行、翌年『抱一上人真蹟鏡』を刊行した。晩年には明画を学んで画風を一変させたとも伝わっている。慶応4年、66歳で死去した。
※池田孤邨の出生地については、水原とされていたが、近年の研究で水原からやや離れた地域の可能性も出てきたことから「水原近辺」とした。
野澤堤雨(1837-1917)のざわ・ていう
天保8年生まれ。骨董商・頚城久蔵こと九皐庵九甲の子。池田孤邨に師事した。通称は久太郎。別号に静々、鷗邨、対桜軒、晴閑堂などがある。俳号は九皐庵九皐。向島小梅に住んだ。孤邨による『光琳新撰百図』や『抱一上人真蹟鏡』刊行にあたってその内容に深く関わった。明治に入って起立工商会社の図案制作に関わり、内国勧業博覧会や内国絵画共進会などに出品した。大正6年、80歳で死去した。
新潟(12)-画人伝・INDEX
文献:池田孤邨論(岡野智子)國華121(2)、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版