三枝真洞(1835-1868)は、大和国添下郡(現在の大和郡山市)の浄土真宗浄蓮寺に生まれた。近くの村の儒医今村文吾の私塾に通って漢学、国学を修め、京都に出て伴林光平に国学、和歌、書を学び、藤本鉄石に南画の技法を学んだ。
鉄石に学び、幕末の京都で各藩の浪士らと交わるなかで尊皇攘夷の志を固め、文久3年、天誅組の挙兵に応じて大和五条に馳せ参じたが失敗、但馬を経て因幡に逃れた。その後の約2年間は、因幡・伯耆(現在の鳥取県)の各地を転々としながら、飯田年平や正墻適処らと交流し、寺子屋を開いて子弟を教え、多くの詩書画を残した。
鳥取を去った翌年の慶応4年2月、天皇を尊び外国人を排除する尊皇攘夷思想から、明治天皇に謁見するため京都御所に向かっていたイギリス日本駐在公使・パークス一行を京都新門前縄手通で襲い、その場で捕えられて数日後に粟田口で斬首された。34歳だった。
幕末の志士として生きた三枝真洞(蓊)の短い生涯は、司馬遼太郎の短篇集「幕末」に収録された「最後の攘夷志士」に描かれている。
他に江戸時代後期に奈良で活動した画人としては、文化年間に角振町に住んでいた菊谷古馮(不明-不明)が円山応挙に学び、大簡堂葛陂と号して花鳥画をよくしたと伝わっている。また、興福寺修南院の代官だった内藤其淵(不明-不明)は、画を菊谷古馮に学び、四季の鹿の姿態を描いた。はじめ水門に住み、のちに芝突抜に移った。
画だけでなく詩文書にもすぐれた長谷雨蕉(1785-1854)は、頼山陽と交友があった人で南半田に生まれ押上町に住み、安政元年に没した。いま五却院に墓碑があり、裏に明教館教授佐々木絢の撰文が刻されている。
三枝真洞(1835-1868)さえぐさ・しんどう
天保6年大和国染下郡(現在の大和郡山市)生まれ。実家は大和国浄蓮寺。幼名は芳丸、本名は蓊、僧名は浄尚。別号に青荷、青樵堂、山跡方外史、真洞人などがある。変名は青木精一郎。儒医今村文吾に漢学を、伴林光平に国学を学んだ。京都では東本願寺学寮に入った。文久3年天誅組の変に参加し、失敗して因幡にのがれた。慶応4年イギリス公使パークスを京都で襲撃して失敗し、同年処刑された。34歳だった。
奈良(04)-画人伝・INDEX
文献:奈良市史美術編、大和の近世美術