江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本最古の私立薬草園「森野旧薬園」を開設し、原色動植物図譜『松山本草』を著した森野藤助

森野藤助『松山本草』の一部

森野藤助(1690-1767)は、大和国宇陀郡松山(現在の奈良県宇陀市)の葛粉製造業の家に生まれた。大和国で採薬を行なう幕府採薬使・植村政勝を案内する薬草見習の一人となり、本草を学んだ。享保14年には幕府より薬草を下賜され、自宅裏山に日本最古となる私立薬草園「森野旧薬園」を開設した。

薬種商としても活動し、寛延2年に家業を子の武貞に譲り隠居した。賽郭と号して賽翁と呼ばれ、桃岳庵の書屋で626種の植物と264種の動物(うち181種は貝)を描いた原色動植物図譜『松山本草』全10巻を著した。

森野藤助(1690-1767)もりの・とうすけ
元禄3年大和国宇陀郡松山生まれ。家業は葛粉製造業。諱は通貞、通称は藤助。号は賽郭。享保14年幕府採薬使・植村政勝に随行して大和の薬草を探索し、この功で幕府薬園の薬草木をあたえられ、自家での栽培・精製を許され、日本最古となる私立薬草園「森野旧薬園」を開設した。享保20年苗字帯刀を許された。公儀御用としてカタクリ粉を製し納付した。著作に図譜『松山本草』がある。平賀源内らとも交友した。明和4年、78歳で死去した。

森野好徳(1756-1809)もりの・こうとく
宝暦6年大和国吉野郡竜門郷生まれ。池田好等の二男。森野家に入り三代目藤助を襲名した。石水と号し、石水翁と呼ばれた。本草の研究につとめ、薬種業にもつくした。和漢の学を好み、和歌や書をよくした。郡山藩主・柳沢保光の知遇を得て、藩邸への出入りも許された。皆川淇園ら多くの文化人と交友し、寛政11年皆川淇園の書と撰による「賽郭翁祠堂の碑」を建立。文化4年12条の家訓「家訓」をまとめた。文化5年、52歳で死去した。

奈良(03)-画人伝・INDEX

文献:大和の近世美術