大正初期の文展で美人画作家として活躍した栗原玉葉(1883-1922)は、現在の雲仙市に生まれ、上京して寺崎広業に学んだ。大正2年、第7回文展に初入選し、第8回展では褒状を受け、人気画家としての地位を確立していった。当時、美術鑑賞者のあいだでは美人画ブームがおこっており、文展ではこのブームを受け、翌年の第9回展で美人画室を新設、美人画作品を一堂に集めて展示した。歌舞伎「阿波の鳴門」に取材した玉葉の入選作《お鶴》もこの部屋に展示されたが、昭和9年に『日本画大成』で紹介されて以降、その所在が分からなくなっていた。
このほど、この第9回文展入選作《お鶴》が発見され、「長崎歴史文化博物館研究紀要 第11号」(2016)の「栗原玉葉研究:出生から新出作品《お鶴》まで」(五味俊晶)において詳しく検証されている。同論文には「《お鶴》は、美人画ばかりを集めた「美人画室(第三室)」に展示され、北野恒富《暖か》(滋賀県立近代美術館蔵)などと共に大衆の眼を愉しませた。」と記されたおり、当時話題を呼んだ北野恒富の問題作《暖か》などと共に展示された当時の様子がうかがい知れる。
また、長谷川雪塘の長女で父に狩野派を学んだ長谷川雪香(1873-1937)は、武者絵、美人画、仏画、肖像画などを得意とし、大正2年からは「グラバー図譜」に約180枚の魚図などを描いた。同図譜には、長崎市生まれの萩原魚仙(1873-1942)も、約180点描いている。ほかには、島原出身の四条派の閨秀画家・今坂雪光(1899-1988)、「長崎の女」の連作で知られる甲斐宗平(1902-1988)、長崎南画の中興の祖として活躍した小柳創世(1906-1983)らがいる。昭和になると、長崎市生まれの松尾敏男(1926-2016)らが中央画壇で活躍した。
栗原玉葉(1883-1922)
明治16年南高来郡山田村生まれ。家業は酒造業。本名はあや子。父は栗原宰、母はクマ、破魔寿、貞男、源治、吉郎の4人の兄がいる末子。明治34年長崎東山手の梅香崎女学校に入学。長崎教会の瀬川浅牧師に洗礼を受けた。明治43年東京女子美術学校を卒業、寺崎広業に師事した。大正2年第7回文展で初入選し、以後文展・帝展に出品。寺崎広業没後は松岡映丘に師事した。東京の女性画家の団体「月耀会」の創立に参加するなど、女性画家の地位確立に努めた。大正11年、40歳で死去した。
長谷川雪香(1873-1937)
明治6年唐津生まれ。本名はサダ。長谷川雪塘の長女。7歳で父に狩野派の技法を学び、明治23年の雪塘没後は、母ハナ、弟妹と共に長崎に移住した。武者絵、美人画、仏画、肖像画など描いた。大正2年から6年まで「グラバー図譜」約180枚を描いた。昭和12年、65歳で死去した。
萩原魚仙(1873-1942)
明治6年長崎市丸山町生まれ。青楼・萩原龍二郎の二男。本名は鎮之助。小波魚青に四条派の画法を学んだ。大正元年から4年にかけ「グラバー図譜」の魚図約180点を描いた。鯉図を得意とし、東浜町傘ぼこ垂れに「さんごと魚群」を描いた。昭和17年、70歳で死去した。
今坂雪光(1899-1988)
明治32年島原市生まれ。大正4年京都に出て、同郷の小林観爾に日本画の手ほどきを受けた。翌年四条派で京都美術工芸学校教授の川北霞峯塾に入り本格的に日本画を学んだ。霞山と号して島原で霞山画会を主宰。昭和8年に長崎に移住した。雲仙、安中梅林などの画作のかたわら塾を開き、長崎県展・市展の審査員を歴任、長崎県日本画の発展に貢献した。昭和63年、88歳で死去した。
甲斐宗平(1902-1988)
明治35年大分県生まれ。明治44年に長崎に移住、24歳の時に画家を志して上京した。大正10年県立長崎図書館で創作画個展。大正13年には横手貞美らと3人社展を開催した。戦後は長崎県展・市展の創立審査員をつとめた。鶴陽社を主宰。昭和63年、86歳で死去した。
小柳創世(1906-1983)
明治39年長崎市生まれ。本名は種義。初号は創生。京都府立絵画専門学校卒業。土田麦僊、橋本関雪に師事した。昭和8年に院展初入選。昭和45年に長崎に移住した。日本南画院創立会員理事、長崎県展審査員。昭和58年、77歳で死去した。
松尾敏男(1926-2016)
大正15年長崎市生まれ。3歳の時に一家で上京した。堅山南風に師事し、昭和24年再興第34回院展に初入選、51回展、53回展、55回展で日本美術院賞・大観賞を受賞、昭和46年同人に推挙された。以後も院展を中心に活躍、昭和54年に日本芸術院賞を受賞、平成6年に日本芸術院会員となった。平成12年文化功労者になり、平成24年に文化勲章を受章した。平成28年、90歳で死去した。
長崎(22)-画人伝・INDEX
文献:長崎の肖像、長崎歴史文化博物館研究紀要 第11号、美人画づくし