中川紀元(1892-1972)は、上伊那郡朝日村(現在の辰野町)に生まれた。旧制諏訪中学(現在の諏訪清陵高校)卒業後は東京美術学校彫刻科に進学したが、半年で中退。のちに太平洋画会研究所、本郷洋画研究所などで学び、特に石井柏亭、正宗得三郎に師事した。
大正5年、フランスから帰国した正宗得三郎の滞欧作が二科展に展示され、マチス風、ドラン風の作品が話題になった。中川はこの正宗の作品に感銘を受け、渡仏を決意する。
大正8年、パリに渡った中川は、当時フランスで展開されていたフォーヴの推進者だったマチスに師事し、エコール・ド・パリの空気のもと、「人形を抱く娘」(掲載作品)など、大胆に簡略化された女性像などを描き、フォーヴ的画風を展開した。2年後に帰国し、その年の第8回二科展に滞欧作8点を発表して二科賞を受賞、当時の画壇に新鮮な衝撃をあたえた。
その翌年にはヨーロッパの同時代美術を紹介する著書『マチスの人と作』『ピカソと立体派』を出版。また、二科会内の前衛的メンバーとグループ「アクション」を結成するなど、大正アヴァンギャルドの先端をいく活動を展開した。
しかし、中川の前衛運動の期間は短く、西洋画の真似ではない新しい「日本の洋画」を目指して模索するなかで、次第に作品から簡略化したフォルムは消えていき、むしろ南画的要素が混入するようになり、昭和5年には日本画家たちと六潮会を結成、自身も日本画を描くようになった。
昭和20年、第二次世界大戦でアトリエが焼失して故郷に疎開。戦後は地元の高校で絵を教えたりして昭和31年まで信州で暮らした。その間、二科会を離れて、昭和22年に二紀会の創立に参加した。再び上京してからは、水墨画的な油彩画に新境地をひらき、晩年には仏像をモチーフにするなど洒脱な作品を制作した。
中川紀元(1892-1972)なかがわ・きげん
明治25年上伊那郡朝日村(現在の辰野町)生まれ。本名は紀元次。小学校高等科卒業に際し、兄の勧めで陸軍幼年学校を受験したが体格検査で不合格となり、翌年旧制諏訪中学(現在の諏訪清陵高校)に入学、明治45年同校を卒業して東京美術学校彫刻科彫塑部に進学したが半年で中退。のちに太平洋画会研究所、本郷洋画研究所などで学んだ。大正8年渡仏しマチスに師事。大正10年帰国した。二科会には第2回展に初入選して以来出品を続け、渡欧中も出品し、第7回展に樗牛賞、第8回展では二科賞を受賞して会友になった。大正11年二科会内の前衛的メンバーとフォーヴグループ「アクション」を結成したが翌年解散。大正12年二科会会員。昭和22年二科会を脱退し、正宗得三郎らと二紀会を創立。昭和39年日本芸術院恩賜賞受賞。昭和47年、80歳で死去した。
正宗得三郎(1883-1962)まさむね・とくさぶろう
明治16年岡山県和気郡生まれ。明治35年上京して寺崎広業に入門したが、同年東京美術学校に入学、明治40年同校を卒業し、さらに研究科に進んだ。はじめ白馬会展、文展に出品したが、大正2年から文展の二科会設置運動に参加。翌年渡仏し、モネ、ルノアール、セザンヌらの画風を研究し、マチスに影響を受けた。留学中の大正4年に二科会会員となり、大正5年帰国して二科展に渡欧作を発表した。大正10年再渡仏し、大正13年に帰国以後も二科展に出品を続けた。昭和22年、中川紀元らと二紀会を創立。晩年は富岡鉄斎、良寛の研究に打ち込んだ。著書に『マチス』『画家と巴里』『鉄斎』などがある。昭和37年、79歳で死去した。
長野(62)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第6巻、上伊那の美術 十人集、郷土美術全集(上伊那)、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館) 、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典