江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

アナキストを描いた肖像画が会場撤去となった林倭衛

林倭衛「出獄の日のO氏」

林倭衛(1895-1945)は、小県郡上田町(現在の上田市)に生まれた。幼少期に家の没落と一家離散を経験。15歳で両親の後を追って上京し、印刷会社で働きながら日本水彩画会研究所夜間部に通い、画家として生きる決意を固めた。その一方で、ホイットマンの詩などを愛読した。

また、同研究所に出入りしていた宮嶋資夫を介してアナキストグループの仲間となり、大杉栄や社会主義者と交友関係を持ち、サンジカリズム研究会に加わったり、大杉、荒畑寒村らが創刊した「月刊平民新聞」の配達を手伝ったりした。

大正5年、ロシアの無政府主義者・バクーニンの写真をもとに描いた油彩「サンジカリスト」が第3回二科展で初入選。翌年の第4回二科展では「小笠原風景」など4点を出品して樗牛賞を受賞。さらにその翌年の第5回展では「冬の海」など5点を出品して二科賞を受賞し、華々しい画壇デビューを果たした。

しかし、第6回二科展に出品した「出獄の日のO氏」が、反体制運動の中心人物である大杉栄の肖像画だということで、警視庁から撤回命令が出され、会場からはずされた。この事件は、日本が軍国主義に傾斜していくなかで、芸術に対して思想問題での権力介入が行なわれた最初の事件とされる。

大正10年に渡仏、大正15年までフランスに滞在し、フォヴィスムやキュビスムに触れ、セザンヌに傾倒し、セザンヌのアトリエを借りて住んだりもした。帰国後は春陽会会員となったが、平穏な春陽会の雰囲気が肌にあわず、昭和9年に同会を退会して新団体の創立を目論んだが、自由奔放な気質ゆえか、挫折し果たせなかった。

昭和10年、帝展松田改組で無鑑査の指定を受け、翌年は帝展審査員をつとめた。昭和12年発足の新文展でも洋画部審査員となり、以後新文展や個展を発表の場としていたが、長年の深酒によって体調をくずし、昭和17年に北京に出かけた際に病で倒れ帰国。終戦の年、51歳で急死した。

林倭衛(1895-1945)はやし・しずえ
明治28年上田市生まれ。明治38年小学校を卒業後に上京。明治44年日本水彩画会研究所で学び、大正5年第3回二科展初入選。大正6年第4回二科展で樗牛賞受賞、大正7年第5回二科展で二科賞受賞。アナキストと交流し、大正8年に大杉栄を描いて二科展に出品した「出獄の日のO氏」が撤去を命じられ世間を騒がせた。大正9年二科会会友。大正11年渡欧、大正15年の帰国後は春陽会会員となった。昭和10年帝展松田改組後無鑑査指定。昭和11年帝展審査員。昭和20年、51歳で死去した。

長野(60)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第6巻、上田・小県の美術 十五人集、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館) 、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語