江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

精巧な素描を残して23歳で夭折した倉田弟次郎

倉田弟次郎「農家庭先」木炭/紙 埼玉県立近代美術館蔵

倉田弟次郎(1870-1894)は、旧佐倉藩士で漢学者の倉田幽谷の第二子として埼玉県浦和に生まれた。本来立見姓だったが、父の幽谷が立見一族のなかの倉田の家を再興して姓を改めた。弟の倉田白羊は、弟次郎が10歳の時に生まれた。

明治20年、埼玉県尋常師範学校を退学し、越谷高等小学校の代用教員となったが、洋画家・浅井忠の薦めにより教職を辞めて明治24年に上京、浅井宅に住み込んで本格的に絵を学ぶことになった。同年、明治美術会第3回展に出品、明治美術会通常会員となった。

明治26年、弟次郎22歳の時、師の浅井忠が弟次郎の父・幽谷の甥にあたる立見参の次女やすと結婚したため、浅井は、倉田弟次郎・白羊兄弟と縁戚関係になった。

遠縁となり、いっそう弟次郎に期待をかけた浅井だったが、その翌年、弟次郎は風邪がもとで肋膜炎となり腹膜に進み、肺結核のため23歳で急死した。あまりにも早い死に、浅井は弟次郎の手を握ってその夭折を惜しんだという。

倉田弟次郎「農家」コンテ・紙 埼玉県立近代美術館蔵

倉田弟次郎(1870-1894)くらた・ていじろう
明治3年埼玉県浦和生まれ。倉田幽谷の第二子。明治18年頃から洋画を学び始めた。明治20年埼玉県尋常師範学校を退学し、組合立越谷高等小学校の代用教員となった。明治24年浅井忠に画才を認められ上京、東京市下谷区中根岸の浅井忠宅に起居して画道に励んだ。同年明治美術会第3回展に「農家」を出品し、明治美術会通常会員となった。明治25年明治美術会第4回展に水彩画「野寺の景」出品。明治26年第5回展に水彩画「寛永寺」他2点、油彩画「春郊」を出品。明治27年、23歳で死去した。

長野(54)-画人伝・INDEX

文献:倉田白羊と弟次郎展