倉田白羊(1881-1938)は、旧佐倉藩士で漢学者の倉田幽谷の第三子として埼玉県浦和に生まれた。23歳で早世した兄・弟次郎の遺志をついで画家を志し、遠縁にあたる浅井忠に師事し、浅井が東京美術学校教授に就任すると、明治31年同校西洋画科専科に入学、浅井がフランスに留学したあとは黒田清輝に師事した。
明治34年、同校卒業後は群馬県立沼田中学校に教諭として赴任したが、画家として生きる決意が固く、3年後には教職を辞して東京に戻った。この間、明治美術会を継承するかたちで創立された太平洋画会の会員となり同展に出品を続け、明治40年には第1回文展にも入選した。翌年には山本鼎らが創刊した美術文芸雑誌「方寸」の同人となり、石井柏亭、森田恒友らとともに編集に携わった。
大正3年、日本美術院が再興されたが、この年倉田は北原白秋らと小笠原諸島に渡っていたため、翌年帰京して再興日本美術院の洋画部同人となり第2回展から出品した。しかし、大正10年に脱退、大正11年に梅原龍三郎、岸田劉生、小杉未醒らとともに春陽会を結成した。
同年秋、山本鼎が提唱する児童自由画教育運動と農民美術運動に共鳴し、日本農民美術研究所の副所長兼教育部長として千葉から長野県小県郡に移り住み、県下の小学校に素描60点を配布するなど、美術教育の振興に力を入れ、また不況に苦しむ農家の救済運動として羊毛紡織の講習会を行なうなど精力的に活動した。
昭和9年には、美術教育の普及と並行して200号の大作「たき火」(掲載作品)などを精力的に制作していたが、休養をとらずに制作を続けたためか、持病である糖尿病が次第に悪化し視力も衰えていった。その後療養により一時は回復したが、昭和13年、56歳で死去した。
倉田白羊(1881-1938)くらた・はくよう
明治14年埼玉県浦和生まれ。父は佐倉堀田藩の元藩士・倉田幽谷。本来は立見の姓だったが、父が立見一族のなかの倉田の家を再興し、姓を倉田に改めた。明治27年親戚の浅井忠に師事。明治31年明治美術会の準会員となり、同年東京美術学校に入学して浅井忠教室に学んだ。明治34年同校を首席で卒業。翌35年太平洋画会が創設され会員となった。明治40年第1回文展に出品し、以後、文展、帝展に出品したが、大正11年小杉未醒らと春陽会を結成し創立会員となった。昭和9年以後大作を発表したりしたが、晩年は眼を患い、昭和13年、56歳で死去した。
長野(53)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第6巻、上田・小県の美術 十五人集、信州の美術、続 信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、信州近代版画の歩み展、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、長野県美術大事典