長谷川石峯(1879-1904)は、下伊那郡喬木村阿島に生まれた。長谷川家は代々阿島に居住した同地方屈指の豪農で、明治維新後、父は戸長をつとめ、製糸業をはじめたが没落したと伝わっている。石峯は、幼いころから絵の才能に秀で、17歳の時に上京して滝和亭に師事した。この頃から郷里に近い赤石山にちなんで「石峯」の号を用いている。
初期は、師の和亭に倣い花鳥画を描いていたが、明治32年、20歳の時に和亭門下の兄弟子である佐藤紫烟の紹介により日本美術協会に入会し、この頃、和亭のもとを離れて、歴史画家の松本楓湖が主宰する安雅堂画塾に入門した。
翌年6月の日本美術協会絵画研究会に「義経吉野山図」を出品、同年12月には同会を退会したが、以後も日本美術協会を中心に歴史画の発表を続け、明治34年、35年と日本美術協会展で褒状1等を受けた。
また、明治36年からは有識故実に詳しい邨田丹陵に師事し、本格的に歴史画に取り組み出し、新進の武者絵画家として期待された。その優秀さは同郷の菱田春草に対比されるといわれたが、「衣川戦陣図」の制作中、病のため25歳で夭折した。
長谷川石峯(1879-1904)はせがわ・せきほう
明治12年下伊那郡喬木村生まれ。本名は二郎。生家は旗本阿島和久家の用達をした豪農。明治29年上京、滝和亭に師事したのち、松本楓湖、邨田丹陵にも学んだ。明治34年日本美術協会展褒状1等、明治35年同展褒状1等、明治36年でも同展に出品して3等賞銅牌を受け、歴史画家として注目されたが、明治37年、25歳で死去した。
長野(43)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第2巻、飯田の美術 十人集、郷土美術全集(飯田・下伊那)〔前編〕、近代の歴史画展-江崎孝坪と武者絵の系譜