江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

将来を嘱望されながら放浪の末38歳で没した西郷孤月

西郷孤月「飛瀑」長野県立美術館蔵

旧松本藩士の家に生まれた西郷孤月(1873-1912)は、幼いころに家族で東京に移住し、神田神保町で育った。小学生時代からドイツ語を学び、卒業後は東京英語学校で英語を、知神学校で美術を学んだ。15歳の時に狩野友信に師事して日本画の手ほどきを受け、翌年16歳の時に東京美術学校に1期生として入学。同期には横山大観、下村観山、1級下に菱田春草がおり、彼らとともに橋本雅邦門下の四天王と呼ばれた。

明治29年、23歳で東京美術学校研究科を修了し、同校の助教授に就任して後進の指導にあたっていたが、2年後の岡倉天心の校長辞職にともない、他教授陣とともに辞職し、同年天心を中心に創立された日本美術院に参加した。そして日本美術院を舞台に、天心の「空気を描け」という教えのもと、大観、春草らとともに新しい日本画の表現を模索し、無線描法を完成させていく。

この頃、師の橋本雅邦の娘と天心媒酌のもと結婚した。孤月が雅邦の女婿に選ばれた理由は定かではないが、四天王のなかでも特に将来を嘱望されてのことだと思われる。しかし、この結婚生活は長くは続かず、半年も持たずに離縁となった。孤月の放蕩が原因とされ、これをきっかけに孤月の画家人生は暗転していく。

孤月は、離婚した翌年も日本美術院の講習会講師などをつとめ、連合共進会にも出品していたが、次第に日本美術院から離れるようになり、明治36年の連合共進会を最後に中央画壇から姿を消した。その後、日本各地を放浪の末、九州を経て台湾に渡り数ヶ月滞在していたが、台北で発病して帰国、大正元年、本郷駒込の自宅で死去した。38歳だった。

長くその存在を忘れられていた孤月だったが、諏訪市出身の小説家・藤森成吉が『知られざる鬼才天才』のなかで孤月の再評価を提唱するなど、次第にその機運は高まり、昭和46年には長野県信濃美術(現在の長野県立美術館)で、昭和55年には松本市立博物館で孤月の大規模な展覧会が開催され、再評価は進み、近年では美術史のなかに正当に位置づけられるようになった。

西郷孤月(1873-1912)さいごう・こげつ
明治6年松本土井尻生まれ。旧松本藩士・西郷績の長男。本名は規。幼児期に家族とともに上京した。明治12年東京高等師範学校付属小学校に入学。卒業後は神田の東京英語学校、知神学校で学んだのち、狩野友信に日本画の手ほどきを受けた。明治22年の東京美術学校創立と同時に1期生として入学、研究科を経て同校の助教授になった。明治31年の東京美術学校騒動の際、岡倉天心、橋本雅邦、横山大観らとともに辞職し日本美術院の創立に参加。無線描法の研究に取り組んだ。この間、日本絵画協会共進会の第2回展から出品し、3回展では「春暖」が銅牌を受けた。美術学校辞職後は明治31年橋本雅邦の長女と結婚したが、放蕩が原因で離婚。明治36年頃から各地を遍歴するようになり、明治44年台湾に渡ったが発病して帰国。大正元年、38歳で死去した。

長野(38)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第2巻、松本の美術 十三人集、信州の美術、松本平の近代美術、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語