江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

渡辺小華に師事し花鳥画を多く残した大平小洲

大平小洲「群芳争妍図」

大平小洲(1849-1930)は、下伊那郡野池村(現在の飯田市千代野池)に生まれた。生家は酒造業も営む豪農で、父の大平新右衛門は、若い頃に京都に出て四条派の岡本豊彦に画法を学び、「鵲巣」と号して画家になろうとしたが、兄の死で郷里に呼び戻され家を継き、家業のかたわら絵筆を握っていた。その父の影響もあり、小洲も幼いころから草花などを描いていたという。

9歳頃から光明寺の寺小屋に通い、15歳の時に木曽福島の遠藤五平太に入門して剣術を学び、19歳で免許皆伝となり帰郷して家督を継いだ。このころ清内路村に滞在中の原蓬山に会い、その画風と生き方に共感し影響を受けたが、絵に専念できるような環境ではなかったため、家業に励み、野池村戸長、筑摩県第三区第二中学校区取締などの公職もつとめた。この頃、26歳の小洲は、はじめて飯田を訪れた富岡鉄斎に相見し、少なからぬ影響を受けたと思われる。

本格的に絵を学ぶようになったのは、明治9年に豊橋を訪ねて渡辺小華に入門してからで、その後は家業や公職のかたわら絵筆をとった。明治12年には千代村の村長に推されたが、村の方針を立ててから1ケ月後に辞職。さらに同年第1回県議会議員に選出されたが、これも一期だけで辞職した。政治的な活動は好まなかったようで、晩年にも下伊那郡議員に推されたが、あまり会議に出なかったという。

明治36年、家督を譲り閑雅の日々を送れるようになってから、再び飯田に来た富岡鉄斎に再会した。当時、鉄斎は68歳だったが、その若々しく青年のような意気の激しさに感服し、自分の学びの浅さを恥じるとともに、自身の画をどのように深めるかを苦悩し精進したと伝わっている。

小洲は、生涯、多くの花鳥画を描いたが、その作風は「崋椿系」と呼ばれる、渡辺崋山から子の小華へと受け継がれた流儀だった。その後、小華没後の大正期に入ると次第に華やかな表現へと変化させながら独自の花鳥画を創り出していった。飯田市近辺には木下小麟(1890-1970)をはじめ多くの門人がいる。

大平小洲(1849-1930)おおだいら・しょうしゅう
嘉永2年下伊那郡野池村(現在の飯田市)生まれ。大平新右衛門の長男。通称は新八郎。四条派の絵を学んだ父の影響で幼少から筆をとった。元治元年、15歳で木曾福島の遠藤五平太に剣術を学び、19歳で免許皆伝となり帰郷して家を継いだ。このころ清内路村に滞在中の原蓬山の影響を受けた。庄屋の家督を継いでから筑摩県第三区第二中学校区取締などをつとめた。明治9年渡辺小華に師事。明治12年第1回県議会議員に当選。明治36年家督を譲り画業に専念した。南画の系統にあって花鳥画を得意とした。昭和5年、80歳で死去した。

木下小麟(1890-1970)きのした・しょうりん
明治23年飯田市龍江生まれ。本名は寛司。大平小洲に師事し、画才を認められて「小麟」の号を与えられた。農業のかたわら絵筆をとり、大正13年からは農閑期を利用して上京し、松林桂月に師事した。禅に入り、書にも精通していた。寒雲子の雅号で俳諧にも親しんだ。天竜峡の龍角峰に「天龍は却初の碧み燕来ぬ」の句碑がある。昭和45年、81歳で死去した。

木下正洲(1859-1945)きのした・せいしゅう
安政6年喬木村富田生まれ。本名は正彦。大平小洲に師事した。学務委員、村会議員、郡会議員などの地方自治にもあたった。昭和20年、87歳で死去した。

坂井八洲(1879-1945)さかい・はっしゅう
明治12年飯田市山本久米生まれ。本名は恪三郎。別号に後楽堂学洲、大我、呉洲がある。松本中学卒業後、日露戦争に出征。大正6年に伯父の大平小洲に師事。全国画道院展で2等賞を受賞。花鳥画を得意とした。昭和20年、67歳で死去した。

上柳平洲(1865-1938)うえやなぎ・へいしゅう
慶応元年飯田市伝馬町生まれ。本名は緑、通称は喜茂。別号に紅雲、外川、不盡庵がある。柳田斗墨、大平小洲、藤井玉洲に師事した。明治34年、小洲らと仙俗会を結成。画楽多会、龍峡美術会などにも参加した。昭和13年、74歳で死去した。

川手米洲(1867-1936)かわて・べいしゅう
慶応3年飯田市千代米川生まれ。幼いころから文筆に長け、家業を継がずに大平小洲に師事した。昭和11年、70歳で死去した。

水野陶山(1890-1911)みずの・とうざん
明治23年飯田市龍江生まれ。水野良哉の弟。本名は武雄。大平小洲と木下小麟に師事した。明治44年、肺結核のため22歳で死去した。

宮沢静居(1869-1946)みやざわ・せいきょ
明治2年飯田市生まれ。本名は鐘太郎。別号に静虚、宇久敬、無想庵主がある。明治22年長野師範学校を卒業後、下伊那郡の小学校教師、校長をつとめた。昭和9年共同社社長に就任。晩年、大平小洲に師事した。龍峡美術展を10数年主宰するなど郷土画壇の発展に尽力した。昭和21年、78歳で死去した。

吉川碌老(1887-1964)よしかわ・ろくろう
明治20年飯田市松尾八幡生まれ。本名は六郎。大正5年八幡に医院を開業、医業のかたわら大平小洲に師事した。下伊那医師会長をつとめた。昭和39年、78歳で死去した。

秦天洲(1889-1960)はた・てんしゅう
明治22年飯田市千代生まれ。本名は貞三。別号に貞洲がある。安藤耕斎に感化を受け、大平小洲、富岡鉄斎に師事した。名古屋展、帝展に入選した。昭和8年から昭和30年まで泰阜村長をつとめた。昭和35年、72歳で死去した。

長野(29)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第3巻、飯田の美術 十人集、郷土美術全集(飯田・下伊那)〔前編〕、信州の南画・文人画、長野県美術大事典