児玉果亭(1841-1913)は、松代藩領沓野村渋温泉(現在の山ノ内町)に生まれた。生家は、「松坂屋」という屋号の商店を経営するかたわら、農業も行なっていた。果亭は幼いころから多彩な能力を発揮し、松代藩の佐久間象山が渋温泉を訪れた際には、8歳の果亭が描いた絵と書を見て、後世に必ず名を成すと、その英才を認めたという。
安政2年、15歳の時に飯山藩の儒者・小野沢惠斎に入門、また、飯山藩士だった南画家の佐久間雲窓の門下生となった画法を学んだ。さらに、漢学を隣村佐野興隆寺の住職だった畔上楳仙に学んだ。楳仙はその後、諸国の寺に歴住し、明治13年には大本山総持寺独住2世貫首になっている。
慶応3年、渋温泉の大火で家を失ったが、再建して絵の修業のため諸国漫遊の旅に出た果亭は、明治7年に小田原の最乗寺で住職をしていた師の楳仙を訪ね、翌年には楳仙の紹介状を持って京都に行き田能村直入の門に入り、主に中国明末の惲南田に傾倒した。
翌年郷里に帰ると、渋温泉に師直入命名の竹僊山房を建て「得中閣」と称した。以後はこの地から動かず画業の拠点とし、東京の展覧会などに出品、明治南画壇の重鎮として活躍するととも、地元で多くの門人を育てた。
児玉果亭(1841-1913)こだま・かてい
天保12年下高井郡沓野村渋温泉(現在の山ノ内町)生まれ。本名は丑松。15歳の時に飯山の小野沢惠斎に儒学、佐久間雲窓に絵を学び、17歳の時に畔上楳仙に漢学を学んだ。慶応3年渋の大火で罹災し、共和村玄峰院海印和尚の勧めで焼き物を売って生計をたてた。明治8年楳仙の勧めで京都に行き、田能村直入に入門、翌年郷里に帰り竹僊山房を建てた。明治15年の第1回内国絵画共進会と、明治17年の同第2回展に出品して褒状を受けた。明治19年東洋絵画共進会に2点出品し、1点は宮内省の買い上げ、もう1点は2等賞を受賞した。大正2年、病気療養中の神奈川県小田原において72歳で死去した。
長野(26)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第2巻、北信濃の美術 十六人集、信州の美術、信州の南画・文人画、郷土作家秀作展(長野県信濃美術館)、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典