長井雲坪(1833-1899)は、越後国蒲原郡沼垂町(現在の新潟市)の代々医師の家に生まれた。12、3歳頃から地元の塾で読み書きを学び、その後、近くに住む医師・大倉良庵のところに医師の見習いとして入り、医学のほかに漢籍、書道などを学んだ。
すでにこの頃から雲坪は、画に興味を持つようになっており、実家に帰るたびに地元の画家・真壁雪晁に日本画の手ほどきを受けていた。雪晁は、もと四条派の画家で、九州を遊歴した際には長崎で鉄翁祖門のもとで学んだこともあった。
嘉永元年、16歳になった雲坪は、画家になる決意を固め、医学修業と偽って長崎に出奔した。当時の長崎では、長崎三画人と称された木下逸雲、鉄翁祖門、三浦梧門が活躍しており、雲坪はまず木下逸雲に師事し、さらに逸雲の許しを得て鉄翁祖門の門人ともなり、また、漢学は広瀬林外に学んだ。
慶応3年、35歳の時、念願の中国に行く機会を得て、オランダの宣教師フルベッキに従って、美濃の安田老人、富山の石川澗月とともに中国大陸に渡った。中国では徐雨亭、王克三、陸応祥らと交流し、張瑞図の研究に熱心に取り組んでいたが、翌年体調を崩し雲坪ひとりで帰国することになってしまった。
その後上京したが、東京の暮らしがあわず、全国を放浪遊歴したあと、明治8年に長野県に入り、飯山に1年ほど滞在し、翌年の正月には長野の善光寺の東寺である寛慶寺の門前長屋に仮寓。のちに飛騨高山に2年ほど滞在したあと、柏原、飯山などに仮寓し、明治12年に長野を経て戸隠に隠棲した。
明治15年秋、再び長野に移り、門人の世話で善光寺裏に画室「玉蘭堂」を建ててもらい、没するまでこの地に留まった。生涯を通じて名利を願わない清貧ぶりを徹底し、世間離れした無欲の画家人生を送り、67歳で没した。
長井雲坪(1833-1899)ながい・うんぺい
天保4年越後国蒲原郡沼垂町(現在の新潟市)生まれ。長井甚六の長男。名は元、字は仲斎、通称は元治郎。別号に桂山、呉江、瑞岩、飄々子雲坪、蘭華山人などがある。幼いころから真壁雪晁に絵を学び、16歳で長崎に出て、木下逸雲、鉄翁祖門に師事、広瀬林外に漢学を学んだ。慶応3年には宣教師フルベッキに従い、安田老山、石川澗泉とともに中国に渡ったが、翌年体調を崩しひとりで帰国した。帰国後は上京したのち、全国を放浪遊歴した。明治8年に長野県に入り、県内外を流浪したのち明治15年から善光寺裏に移り住み、画室を「玉蘭堂」と名づけ定住した。蘭、山水、猿を得意とした。明治32年、67歳で死去した。
長野(25)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第2巻、北信濃の美術 十六人集、長信州の美術、信州の南画・文人画、野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、郷土作家秀作展(信濃美術館) 、長野県美術大事典