佐久間雲窓(1801-1884)は、飯山藩士の家に生まれ、その後、藩の吟味役をつとめた。幼いころから画を好み、30歳頃、藩主の参勤交代に随行して江戸に上り、許可を得て谷文晁門下の鏑木雲潭に師事し、雲潭の一字を許されて雲窓と号した。一説には、その後、雲潭のもとを離れて渡辺崋山に入門し、その門下生のひとりである椿椿山に師事したとも伝わっている。
帰郷後、藩に仕えながら、寸暇を惜しんで身のまわりの風物を描き続け、各地から北信地方にくる文人墨客とも交わり、殊に大橋訥庵とは親しく交流した。明治になって多くの門人を育てた。信州の南画家として最も広範な活動をしたとされる児玉果亭もそのひとりで、ほかには、実子の墨農をはじめ、根津雲祥、葉若雲桂、本田雲湫、太田巌桂らがいる。
また、福島県飯坂出身の女性画家・桃里亭卯香女は、俳諧師・諏訪長山と結婚して松之山温泉に10年ほど住んでいた際、時折松之山温泉を訪れていた雲窓を知り、その画風に共鳴して門人となり、75歳の時に第1回内国絵画展覧会に入選した。
佐久間雲窓(1801-1884)さくま・うんそう
享和元年飯山藩士の家に生まれた。通称は伴右衛門。谷文晁の弟子の鏑木雲潭に師事したと思われる。煎茶を好み、琴もよくした。明治17年、84歳で死去した。
長野(12)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、信州の美術、信州の南画・文人画、語り部の語るふるさと飯山、長野県美術大事典