江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

第9回文展の美人画室でデビューした都城の美人画家・益田玉城

益田玉城「現代隅田川風景」都城市立美術館蔵

都城に生まれた益田玉城(1881-1955)は、15歳の時に京都に出て京都市美術工芸学校に入学したが、体を壊し休学して故郷に戻った。失意の玉城を励ましたのは同郷の山内多門(1878-1932)だと思われる。その後、玉城は東京に出て川端玉章に師事、東京美術学校日本画科にも学んだ。玉城の東京美術学校での卒業制作「羽衣」は、雲の上に浮かぶ天女を描いたもので、すでにこの頃から女性像を主なモチーフとする方向にあったと思われる。

大正4年、玉城は、鹿の子絞りを業とする下町娘を描いた「かの子屋の娘」を第9回文展に出品、初入選で褒状を受けた。この第9回文展では、当時ブームとなっていた美人画が第3室に一堂に集められ「美人画室」と呼ばれた。この美人画室からは受賞が相次ぎ、池田輝方が2等賞、池田蕉園と伊藤小坡が3等賞、そして玉城の他、北野恒富、島成園、島御風が褒状を受けている。

美人画室は、一般からは人気を得たが、識者からは批判を受けることとなった。特に多くの批判が集まったのは、大阪画壇の悪魔派と称された北野恒富の「暖か」で、長襦袢をまとったしどけない姿で、うつろな視線を送る女性像が、「挑発的で、はしたない」と評された。大正デカダンスの時代、退廃的で背徳感のある恒富の女性像は、一般愛好家には人気だったが、文部省主催の展覧会芸術としては、識者の道徳観を刺激しすぎたのかもしれない。

これに対し、玉城の「かの子屋の娘」は、こちらを直視する構図は恒富の「暖か」と共通しているが、その清楚で上品な佇まいから、「厭味がない」と好感を持って迎えられた。その後も玉城は、古典的な品格をもった現代女性を描き、昭和8年の第15回帝展には、黒い薄衣の女性像を描いた「現代隅田川風景」(掲載作品)を出品、以後も帝展、新文展で活躍した。

益田玉城(1881-1955)
明治14年都城生まれ。本名は珠城。別号に長久堂がある。はじめ都城で四条派の赤池南鳳に師事し、明治28年京都市美術工芸学校に入るが病気のため間もなく休学して帰郷し、のちに上京して川端玉章に入門した。明治33年には東京美術学校日本画科入学。同校卒業後は、日本絵画協会、美術研鑽会、巽画会などの展覧会に出品し、明治42年に川端画学校の創立に伴い教授になった。大正4年文展で褒状を受け、以後、文展、帝展で受賞を重ねた。大正11年山内多門と中国に写生旅行。昭和2年『都城古今墨蹟集』を刊行。昭和7年から帝展無鑑査となるが、昭和10年に帝展の主催機関である帝国美術院から改組に伴い無鑑査を外される。旧無鑑査の作家たちと再改組運動を行ない、実行委員をつとめた。昭和12年帝展にかわり新文展がスタートし、翌年の第2回展に無鑑査出品。やがて日中戦争が始まり、昭和15年に従軍画家をつとめた。昭和19年新文展は戦時特別美術展覧会として開催されたが、この展覧会を最後に官展には出品していない。昭和30年、74歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(益田玉城)

宮崎(18)-画人伝・INDEX

文献:益田玉城展、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展