18世紀初めまでは、都城に数多くの絵師の名前が残っているが、18世紀中頃から19世紀前半の間に名前が見られるのは、山路探定(1728-1793)と長峰探隠(1785-1861)の二人だけであり、ともに鍛冶橋狩野家に学んでいる。
山路探定は都城島津家の家臣だったが、木村探元の晩年の弟子となり、ついで江戸に出て鍛冶橋狩野家の狩野深林に学び、深林没後は子の探牧の後見をつとめた。子どもの頃、探定が地面に絵を描いていると、たまたま通りがかった永井慶竺が探定の絵を見て「彼に絵を描かせよ。天性の画才あり」と家人に勧めたという逸話が残っている。
長峰探隠は、はじめ山路探定の子探渓に学び、のちに江戸で鍛冶橋狩野家の狩野探淵に師事した。都城領主島津家22代久倫と24代久本に仕え、神人流薙刀三法を修め、俳句もよくした。作品は数点現存しており、白谷卜斎の豊太閣図を模写したことでも知られている。
山路探定(1728-1793)
享保13年生まれ。名は通虎、通称は喜平八。別号に守行、松石子、探渓、探陽がある。都城の家臣だったが、絵の功により本府の士となった。鹿児島の木村探元に学んだのち、江戸の出て鍛冶橋狩野家の狩野探林に入門した。探林没後はその子探牧の後見となった。天明4年大進法橋に叙せられた。鹿児島に東條探竺、川畑探濬、南郷元安らの弟子があり、子の山路探英、探渓の絵師となった。寛政5年、66歳で死去した。
長峰探隠(1785-1861)
天明5年都城生まれ。名は正秋。幼名は良八、のちに子説といった。初号は等隠。享和年中に都城領主島津家22代久倫の命により山路探溪に学んだ。弘化3年に御医師格御記録方絵師になった。その後、島津家24代久本の命により江戸に出て狩野探淵の門に入った。はじめは等隠と号していたが、嘉永3年師の深淵より探の一字を与えられ探隠と改号した。俳句もよくし、俳号を碧水といった。文久元年、77歳で死去した。
宮崎(4)-画人伝・INDEX
文献:都城市史、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ