江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

木挽町狩野家に学んだ都城の絵師・竹之下信成

竹之下信成「和田合戦の図」都城市立美術館寄託(城市立明道小学校蔵)

都城島津家の絵師たちは、ほとんど狩野派に学んでいるが、白谷卜斎にやや遅れて出た内藤等甫(不明-1664)、竹之下信成(1639-1682)、津曲朴栄(1654-1701)は木挽町狩野家に学んでいる。等甫は狩野尚信に師事し、のちに鹿児島宗藩・島津光久に仕えた。信成は晩年近くになってから江戸に行き、狩野常信の門人になった。これは、信成の先輩である内藤等甫が常信の父・尚信の門人であったことと関連があるかもしれない。この尚信から常信へと続く木挽町狩野家は、奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した家であり、そのつながりが都城出身の絵師から深まったことは、注目すべきことである。

信成の作品とされる「和田合戦の図」は、都城の藩校明道館に所蔵されていた屏風で、明治になり都城・小学明道校(現在の都城市立明道小学校)に伝わり、現在は都城市立美術館寄託となっている。六曲一双の屏風だが、左隻は所在不明である。鎌倉幕府の重臣だった和田義盛が、健保元年北条氏の横暴を怒り、兵を挙げ門に押し寄せているところを描いたもので、戦いの様子を華麗に破綻なくまとめている。山内多門が明道校に勤めていた時(1894年)に縮小して模写したものが都城市(個人蔵)に残っている。

竹之下信成(1639-1682)
寛永16年生まれ。通称は助之進。晩年に江戸に出て狩野常信に師事した。作品は都城市立明道小学校に「和田合戦の図」が残っている。また、都城市の諏訪神社に残る「紙本著色諏訪神社縁起」は天和2年、44歳の時の作である。正徳3年、73歳で死去した。

内藤等甫(不明-1664)
都城の家臣。名は利実、通称は善左衛門。狩野尚信について学んだ。自閉斎と号した。慶安年中に島津光久に召し抱えられて本府の士となった。弟子に山口等月がいる。等月はもと入来の家臣だったが、師の等甫同様、光久に召し抱えられて本府の士となった。寛政4年死去した。

津曲朴栄(1654-1701)
承応3年生まれ。名は常好、通称は利左衛門。狩野常信に学び、島津家20代綱貴に召されて本府の士になった。都城古今墨蹟に山水画が収められている。元禄14年、49歳で死去した。

宮崎(2)-画人伝・INDEX

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ