江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

現代まで続く円山・四条派の系譜

中村左洲「伊勢参宮図」

伊勢には南画をはじめ、狩野派、長崎派、岸派などいろいろな画法を学ぶものがいたが、主流となったのは円山・四条派だった。伊勢に初めて円山・四条派を広めた岡村鳳水の門からは上部茁斎、榎倉杉斎、荘門為斎が出て、さらに上部茁斎の門から林棕林が出て、その棕林の門から磯部百鱗(1836-1906)が出た。

磯部百鱗は中村左洲(1873-1951)、伊藤小坡(1877-1905)ら多くの門人を育て、さらに中村左洲の門からは、のちの京都画壇の重鎮、宇田荻邨(1896-1980)をはじめ、鈴木三朝(1899-1997)、嶋谷自然(1904-1993)ら多くの日本画家が出ている。

『伊勢の画人 磯部百鱗展図録 』に掲載されている「伊勢の画人系譜」によると、磯部百鱗には、左洲、小坡のほかに、井村方外、田南岳嶂、江村隆章、川口呉川、磯部百舟、上地天逸、阪口雨邨、吉田百僊、鈴木紫陽、久保田俊章、山本玉陽、小西柳子、小西左文、原豊村、橋本鳴泉、西田章山、小林松鱗、横地玉華、水谷百碩、井上百汀、向井耕雪、横川小波、坂井桜岳らの門人がいる。

また、中村左洲の門人としては、荻邨、三朝、自然のほかに、出口対石、奥田正治良、中井左琴、小川孤舟、井村岳陽、増田無相、佐藤吟月、松本荻洲、岩本豊年、野呂清水、中村百松、宮原左江らがいて、その系譜は現代まで続いている。

磯部百鱗(1836-1906)いそべ・ひゃくりん
天保7年代々磯部九大夫を名乗る内宮の御師磯部元延の長男として、五十鈴河畔の宇治今在家町に生まれた。若い時から画を志し、はじめに伊勢の林棕林に、のちに京都の長谷川玉峰に師事して四条派を学び、歴史画を得意とした。明治維新前後に京都から伊勢に戻り、明治4年に神宮に奉職してから24年に退任するまで神官の職にあった。中林竹渓に故実を、伊勢の為田只青に俳諧を、八羽光穂、鷹羽龍年に詩文の教えを受けた多才多芸の人で、久保田米僊、今尾景年、鈴木松年、川端玉章らと交友して画の研鑚にも励んだ。神官退任後は画道一筋で、多くの門人を育てた。明治39年、69歳で死去した。

中村左洲(1873-1951)なかむら・さしゅう
明治6年度会郡二見町生まれ。本名は左十。漁師の家に生まれ、幼くして父を失い、漁業で家族を支えながら郷土の三村亘翁の援助で、磯部百鱗に学んだ。明治28年には百鱗のすすめで、第4回内国勧業博覧会に出品し褒賞を受け、その後も日本美術協会、全国絵画共進会、日本画会、文部省美術展覧会などで入選を重ねた。鯛を得意とし「鯛左洲」の異名をとった。昭和28年、81歳で死去した。

伊藤小坡(1877-1905)いとう・しょうは
明治10年宇治山田市生まれ。猿田彦神社宮司・宇治山公貞幹の長女。本名は佐登。18歳の時から磯部百鱗に師事し、明治30年には百鱗の紹介で京都の森川曽文に師事し「文耕」の号を受けた。曽文没後は谷口香嶠に師事して「小坡」の号を受けた。大正4年に第9回文展に初入選、三等賞を受賞した。大正8年に日本自由画壇の結成に参加したが、栖鳳のすすめで退会し、帝展に復帰した。大正末期頃から歴史風俗をよく描くようになった。昭和43年、91歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(伊藤小坡)
参考:UAG美人画研究室(宇田荻邨)

三重(16)画人伝・INDEX

文献:伊勢の画人 磯部百鱗三重の画人展