伊勢地方の狩野派の画人としては、小川(河)地竹園(1808-1872)が知られている。竹園は内宮の神主を務めていたが、江戸に出て狩野洞益に師事し、伊勢に狩野派の画風を伝えた。また、女性画家の小林珮芳(1799-1879)は、鉄翁祖門から奥儀を受け長崎派の南画を描いた。珮芳は、亀井少琴、梁川紅蘭、江馬細香ら女性文人と盛んに交遊し、女性の学問普及にも尽力した。他に岸派を学んだ画人としては、草川華山、岡田静虫、高士北岳、阿部蘭坡らがいる。
小林珮芳(1799-1879)こばやし・はいほう
寛政11年生まれ。名は蝶、字は戀花。紀伊藩の地主・小林榮秀の三女。21歳の時に山田の詩人・東夢亭の妻となった。はじめ月僊の遺墨をもって蘭石図を学び、のちに小橋香村について山水を学んだ。画の巧みさは評判で、増山某が長崎に行く時、珮芳の画を持っていき画僧・鉄翁に見せたところ、鉄翁はその筆意に非凡さを感じ、壁に掛けていた清人・顧海蘋の山水をはずし、増山某に託して珮芳に贈ったという。その後、弘化3年に鉄翁が伊勢に遊んだ際、珮芳を訪ね、樹法、葉法、石法、皴法、山法、蘭竹法などを一々筆を下し、奥儀を授けた。それから珮芳の画風は一変し、名声は高まり、画を請う者が続出したという。嘉永2年に夫の夢亭が没したのちは夢亭の遺志を継ぎ、門人の村井漠所、江川閑雲、松田葵亭らとともに東夢亭詩集三巻を刊行した。珮芳に子はなく、林棕林の子・吉貞を養子とした。多芸であったが、画を最も得意としていた。晩年は女徒を集め習字、裁縫、国文学を課し専ら家庭学を教えた。明治13年、81歳で死去した。
村井漠所(1821-1862)むらい・ばくしょ
文政4年伊勢山田生まれ。東夢亭の門人。夢亭の没後は同僚の江川閑雲、松田葵亭とともに夢亭の妻である小林珮芳を助けて遺著書、東夢亭詩集三巻を刊行した。余技に画を描いた。文久2年死去。
江川閑雲(1835-1874)えがわ・かんうん
天保6年伊勢山田生まれ。東夢亭の門人。名は約之、通称は半九郎。川上葆に学び、常に文墨を友としていた。明治7年、40歳で死去した。村井漠所らと東夢亭詩集三巻を刊行した。
松田葵亭(不明-不明)まつだ・きてい
伊勢山田の人。東夢亭の門人。画もよくした。村井漠所らと東夢亭詩集三巻を刊行した。
草川華山(1832-1908)くさかわ・かざん
天保3年鈴鹿郡生まれ。名は高通。先祖は奥州白河より移住してきた名門とされる。亀山で神職についていた。幼い頃から画を好み、京都に出て岸連山の門に入って学び、山水を得意とした。明治41年、77歳で死去した。
岡田静虫(不明-不明)おかだ・せいちゅう
松阪川井町生まれ。幼名は徳蔵、通称は誠良、俗称は紋徳。別号に天放堂百仙、阿彌廼舎などがある。大工の藤兵衛の二男で、長じて西町の岡田家の養子となった。酒を好み素行が悪かったが、元来器用だったため紋章を描いて生活していた。30歳になった頃に悟るところがあって酒を慎み、岸澤喜安の門に入って常磐津を習い、また、牧田長次郎に篠笛を、橋本鶏足に須磨琴を、そして京都の岸派に画を学んだ。特に画は得意とし、ある年の春、松阪の有志に頼まれて長さ六間、幅四間の大凧に得意の画を描いたところ、構図がすばらしく、遠くから見るとさらによいと評判になったという。明治初年頃死去。
高士北岳(不明-不明)たかし・ほくがく
安濃郡多門の人。名は榮吾。医者を業としていた。幼い頃から画の才能を認められ、岸駒が安濃郡の素封家・林宗右衛門の家に数年間寄寓した際、阿部蘭坡とともに師事した。それからは年に一度京都に出て、円山応挙の画を見て模写し研究を重ねた。とても達筆で、技巧は非凡だったという。富士を写生するため、富士北麓に13年住んでいたことから、号を「北岳」にした。酒が好きで、飲めば必ず乱れたという。65歳で死去した。
阿部蘭坡(不明-不明)あべ・らんは
安濃郡八幡の人。名は國香、通称は彦一。別号に三刀居士がある。岸駒が安濃郡に寄寓している時に高士北岳とともに師事した。
三重(12)-画人伝・INDEX
文献:三重県の画人伝、三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編