江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊勢津藩主・藤堂家と津藩士の画業

「藤堂高虎像」

伊勢津藩の藩主を代々つとめた藤堂家は文雅を好み、2代・高次、3代・高久、10代・高兌、11代・高猷、そして最後の藩主となった12代・高潔らは『三重県の画人伝』に掲載され、その画業が伝えられている。また藤堂家に仕えた津藩士にも、幸田皆春、高木文仙ら多くの画人が出ている。

幸田皆春(不明-1830)こうだ・かいしゅん
伊勢久居の人で藤堂家に仕えた。通称は次右衛門。別号に静山、君晴、隨分軒などがある。画を好み公務の余暇に宋紫石に師事して山水花鳥をよくした。門人に安藤五琴、森田二齋らがいる。文政13年、77歳で死去した。

高木文仙(不明-1872)たかぎ・ぶんせん
江戸旗本の家に生まれ、画を好み、弟に跡を継がせ自身は藤堂家に仕えて津市下部田に住んだ。初号は耳白、のちに文泉と号すが、藤堂家に仕えるようになってから泉の字をはばかり、文仙に改めたという。はじめ江戸で谷文晁の門に入り、のちに長崎の木下逸雲について南画を学んだ。斎藤拙堂土井聱牙、藤堂凌雲、池田雲樵宮崎青谷、井野勿斎らと交友した。明治5年死去。

藤堂凌雲(1809-1886)とうどう・りょううん
江戸の人で、津に来て住んでいたが、晩年はまた江戸に戻った。名は良驥、字は千里。藤堂梅花の子。山本梅逸の高弟で名をよく知られた。藤堂家の一族にして、斎藤拙堂、宮崎青谷、井野勿斎、池田雲樵らと共に藤堂高猷に仕えた。子の石樵もよく画をした。明治19年、78歳で死去した。

藤堂石樵(不明-不明)とうどう・せきしょう
津藩士。名は凌驥、通称は喜四郎。藤堂凌雲の子。詩書に巧みで養正寮書道副師となったが、維新の前に飄然と津を去った。

藤堂歸雲(1816-1887)とうどう・きうん
文化13年生まれ。名は藤堂高克、字は士儀、法号は常山。藤堂高芬の庶長子。津藩家老で、多技にして最も画を好んだ。明治20年、72歳で死去した。

松岡環翠(1818-1887)まつおか・かんすい
文政元年生まれ。名は光訓、通称は橘四郎。はじめ幕府の儒員として翠山と号し、津に来て環翠と改めた。別号に蓮痴がある。五十嵐竹沙の門に学び、墨蓮画を得意とした。明治20年、58歳で死去した。

太田棲雲(1843-1901)おおた・そううん
天保14年津市丸の内生まれ。幼名は熊之亟、字は朝周。別号に雨香堂、鳳仙、観伯などがある。津藩士で、代々弓術をもって仕えた。先祖は太田道観だと伝わっている。画を好み、幼い頃に池田雲樵に学んで画才を認められ、のちに椿椿山の門に入って研鑚を積んだ。また詩を土井聱牙に、書を井野勿斎に学んだ。性格は恬淡磊落で、酒を好んで奇行が多かったという。門人には、横田地松雲、小津琢堂、田中洞仙らがいる。子の米所も画を描いた。明治34年、59歳で死去した。

曾谷定景(不明-不明)そたに・ていけい
津藩士。代々土佐派の画をもって仕えていた家柄で、曾谷家の七代。若い頃から画の才能を認められ、数代のうちでも特に達筆だったため、藩主の命で江戸に出て、住吉内記について研究していたが、嘉永の中頃、40歳に満たず死去した。

内海雲石(不明-不明)うつみ・うんせき
文化天保頃の人。通称は左門。津藩士で鎗術の名家。余技に書画および文章をよくし、また俳諧に長じていた。池田雲樵は雲石の門から出たと伝わっている。

磯坂煙崖(不明-不明)いそざか・えんがい
文化文政の人。津藩士で画をよくしたという。

中内江上(不明-不明)なかうち・こうじょう
明治初期の人。津藩士で、藩儒・中内撲堂の長男。余技に画をよくした。

中村竹汀(不明-不明)なかむら・ちくてい
近代の人。津藩士で書画をよくし、特に書が巧みで、画も雅致に富んでいた。

前田翠崖(不明-不明)まえだ・すいがい
近代の人。津藩士で高田派鎗術の名家。画をよくした。

服部松斎(不明-不明)はっとり・しょうさい
近代の人。通称は十太夫。津藩士で余技に画をよくした。

野田半谷(不明-不明)のだ・はんこく
近代の人。津藩士で鎗術の名家。篆刻をよくし書画も巧みだった。

三重(6)画人伝・INDEX

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳