青木木米「兎道朝暾図」重文 東京国立博物館蔵
池大雅・与謝蕪村以後、大雅・蕪村に学んだもの以外にも、京坂には浦上玉堂、岡田米山人、青木木米、田能村竹田ら個性的な南画家が現れ、日本南画は豊かな成熟期を迎えた。また、江戸では谷文晁、渡辺崋山、椿椿山らが活躍し、京坂に始まった日本南画は幕末に近づくにしたがい日本各地に拡大していった。
京焼の陶工で書画詩文にすぐれた青木木米(1767-1833)は、京都鴨川沿いの茶屋に生まれ、どういう縁なのかは不明だが、幼年期は池大雅に可愛がられたという。少年期になると高芙蓉に入門し、銅器、玉財、銭貨など古器鑑賞の手ほどきを受けた。30歳近くになって陶芸の道に進んでからは、加賀藩に招かれて金沢に窯を築くなどして名工として名を馳せた。
画は余技で、独学だったと思われるが、池大雅への追慕を款記に記すなど、大雅との関連性も指摘されている。記録では、30歳の時に東山新書画展観に山水画を出品したのが初と絵画活動となる。『平安人物誌』に名前が載った56歳頃から画作に熱が入ったとみえ、現存する木米画のほとんどがこの年以降のおよそ10年間に集中して描かれている。
掲載の「兎道朝暾図」は、58歳の時の作で、平等院と宇治橋を前景に、宇治川の両岸を望む朝日が映える景観で、川面には1艘の下り舟がみられる。山肌の土色と川面の藍色は、他の南画家にはみられない木米独特の色感で、湾曲したような画面構成を含め、陶器の絵付けで培われた独自の表現法と思われる。
10歳年下の田能村竹田は、京都に入るごとに木米を訪ねたといい、木米画について「大雅・蕪村なきあと観るべきは木米翁唯一で、画風が奇抜でほかの画家と比べても誰にもない趣がある」と評している。
青木木米(1767-1833)あおき・もくべい
明和4年京都生まれ。京都祇園木屋佐兵衛の長男。姓は青木、幼名は八十八、のちに佐兵衛、字は青来。別号に九々鱗、百六散人、古器観、停雲楼などがある。晩年聾して聾米と号した。青年期、高芙蓉の門に入り古器鑑賞の方を学んだ。20代後半より陶工を志し、奥田頴川に学んだ。加賀前田家に招かれ春日山窯を開いた。天保4年、67歳で死去した。
京都(92)-画人伝・INDEX
文献:文人画家の譜、日本の南画、江戸絵画入門、日本美術絵画全集・第21巻、日本画家人名事典