長谷川等伯「松に秋草図屏風」(右隻)国宝 京都・智積院
長谷川派は、長谷川等伯を祖とする漢画系の一派で、桃山時代、当時画壇の中心だった狩野派と競い合いながら、狩野派とはまた違った清新でみずみずしい画風をかかげた。豊臣家との関係も深く、京都を中心に独特の華やかな制作活動を展開した。
祖の等伯は、能登七尾の出身で、30代になって上京する以前は仏画や肖像画などを主体に描く絵仏師的な作画活動を行なっていた。京都では千利休や本法寺の日通上人、大徳寺の春屋宗園ら実力者たちの知遇を得て、狩野派の牙城を崩すべく活動の場を見出していった。
そして52歳の時、狩野派の棟梁・永徳に対して下克上を挑み、狩野派が注文を受けた内裏の障壁画制作の一部の揮毫を長谷川派にまわしてもらうよう造営奉行に働きかけた。この割り込みに対しては、永徳が抗議して等伯の野望は却下されたが、その直後、永徳が48歳で世を去り、画壇の勢力バランスは崩れることとなる。
その結果、豊臣秀吉の命で造営が始まった京都・祥雲寺の障壁画は、長谷川派が描くことになった。等伯は、永徳が得意とした大画様式を用いながら、狩野派とはまったく異なる視点を持つ金地濃彩の装飾画を描いた。現在、智積院に残る障壁画群がそれで、等伯の手による「松に秋草図」(掲載作品)「楓図」、長男の久蔵が描いた「桜図」などがある。
しかし、等伯あっての長谷川派という感が強く、しかも後継者の久蔵が26歳で早世したこともあり、その他の直系の画家もいなかったわけではないが、しかるべき飛躍の場をつかみえず、長谷川派は次第に精彩を失っていった。
長谷川等伯(1539-1610)はせがわ・とうはく
→能登が生んだ桃山時代を代表する画家・長谷川等伯
長谷川久蔵(1568-1593)はせがわ・きゅうぞう
→等伯の跡を継いで一門を率いる存在として将来を嘱望されていたが26歳で早世した長谷川久蔵
京都(67)-画人伝・INDEX
文献:日本絵画名作101選、桃山絵画の美、桃山時代の美術、日本の美術14 桃山の障壁画、日本美術絵画全集・第10巻