狩野孝信「賢聖障子絵」20面のうち2面 京都・仁和寺
狩野孝信(1571-1618)は、狩野永徳の二男として生まれ、偉大な父とそれに反した道を歩もうとする兄の光信の狭間に立って困惑し、父の豪放な筆致、兄の優美な画風の両方の特色を融合することによって自己の画風を形成する道を進んでいった。
慶長13年、兄の光信が江戸からの帰路、桑名で没したため、慣例にならい狩野宗家は光信の長男・貞信が継いだが、わずか12歳だったため、光信の弟・孝信がその後見役をつとめ、同時に狩野派の事実上の棟梁となり、没するまでの10年間、同派の屋台骨を支えて活躍した。
孝信の画事で特に注目されるのは、一門を率いてその任にあたった慶長19年の内裏障壁画の制作で、この時、孝信は内裏御殿のなかで最も格式の高い紫宸殿の内部を飾る「賢聖障子絵」(掲載作品)を描いた。「賢聖障子絵」としては、本図が現存最古の作例となる。
孝信は、それまで京都を中心に活動していた狩野派に、江戸幕府御用絵師の道を拓いたともいえる。孝信の子、長男の探幽、二男の尚信、三男の安信は、江戸に出て江戸幕府の奥絵師となり、幕府よりそれぞれ邸宅をあたえられ、探幽は神田鍛冶橋、尚信は木挽町、安信は狩野本家の8代目を継いで中橋に住み、江戸時代を通じて繁栄する江戸狩野家の基盤をつくった。
狩野孝信(1571-1618)かのう・たかのぶ
元亀2年生まれ。狩野永徳の二男。右近衛将監に任ぜられ、兄・光信の没後は絵所預となり、のちに法眼に叙された。通称は与次、のち右近。山水、人物、草木、鳥獣など巧みで、禁裏絵師として活躍した。元和4年、48歳で死去した。
京都(58)-画人伝・INDEX
文献:狩野派決定版、狩野永徳と京狩野、近世やまと絵50選、日本美術全集10・12、日本画家人名事典