土佐行広「涅槃図」(部分)京都・興聖寺蔵
土佐行広(不明-不明)は、藤原光重の子で、藤原行秀とは兄弟だったと推測されている。兄と目される行秀が工房「春日絵所」を継承し、絵所預をつとめたのに対し、行広は主として将軍家周辺での画事を行なった。初期を代表する「足利義満像」や「満済像」などの肖像画や、仏画制作に手腕を発揮し、15世紀前半の半世紀にわたって活躍した。
絵所預の職は、六角寂済の六角絵所と春日絵所の絵師が交替で就任していたが、行広は絵所預に就くことはなく、傍流にありながら春日絵所をよく支えた。土佐守に任じられ「土佐将監」と呼ばれていたことから、絵師として初めて土佐を称し、以後の春日絵所の絵師たちも土佐を名乗るようになった。
のちに出家して経光と名乗ったが、掲載の「涅槃図」の画面左下には「土佐守入道法名経光筆」の落款があり、軸裏に記された文言から、宝徳3年(1451)に出家後の行広によって制作されたとみられる。
土佐行広(不明-不明)とさ・ゆきひろ
姓は藤原。藤原光重の子、藤原行秀とは兄弟だったと考えられている。右近将監土佐守に任じられ、応永14年に行広の時から土佐将監と呼ばれ、正式に土佐家を名乗るようになった。応永15年「足利義満像」、永享6年「満済准像」、宝徳3年「涅槃図」などを描いた。出家して経光と名乗った。清凉寺「融通念仏縁起絵巻」の制作にも参加した。
京都(39)-画人伝・INDEX
文献:日本美術全集9、日本画家人名事典