谷口香嶠「残月山媼図」清水寺蔵
谷口香嶠(1864-1915)は、代々木綿問屋を営む豪商の家に生まれ、少年期から漢籍、史書に通じ、15歳で東京に出て医学を学んだ。翌年生家に戻り、家業を手伝いながら画法を独学し、明治16年、19歳の時に四条派の幸野楳嶺に入門した。さらにその翌年には京都府画学校北宗科に入学し、そのかたわら三国幽眠に漢籍を学んだ。
明治21年、宮内省図書頭だった九鬼隆一の古社寺宝物取調に随従して多くの古画に接したことにより、本格的に古画の研究と模写に没頭するようになり、同じ頃、陶芸家の清水六兵衛宅に寄寓して陶画を学び、工芸図案への志向も芽生えた。
その歴史風俗に関する深い知識をもとに、古今東西の美術や工芸図案の表現を取り入れた先進的な歴史画を描いた。20代から30代にかけて多くの博覧会や共進会で受賞を重ね、菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と称され、明治30年代の歴史画ブームのなか、京都画壇における歴史画の第一人者として活躍した。
画業のほかにも活動は多岐にわたり、煥美協会や京都美術協会に参加して機関誌の編集に積極的に携わり、「京都美術雑誌」では編集人をつとめた。また、生涯を通じて古画や古器物を数多く模写して数々の画譜を手掛け、明治24年には伝光琳画の模写による『光琳画譜』を出版したことで、近代における琳派研究の先覚者としても注目されている。
また、工芸図案の世界でも多彩な活動をみせ、早くから陶器の絵付けや輸出用美術染織品の大下絵を多数手掛け、明治35年には京都市の委嘱でトリノ国際現代装飾美術展覧会の視察のため渡欧し、帰国後の明治30年代後半には、同じく渡欧経験のある浅井忠や神坂雪佳らとともに、京都を代表する工芸図案家としても語られた。
教育者としても優れ、京都市立美術工芸学校や京都市立絵画専門学校で教鞭をとったほか、自身の主宰する画塾自邇会からは猪飼嘯谷や伊藤小坡といった歴史画の薫陶を受けた画家をはじめ、津田青楓、小早川秋声、野長瀬晩花、水越松南といった個性豊かな画家たちが出た。
掲載の「残月山媼図」は、深山での遊女と山姥の邂逅を主題とする謡曲「山姥」に取材した作品で、第1回文展に出品された。審査時に何らかの理由で岡倉天心から激しい批判を受け、竹内栖鳳の懸命な擁護によって3等賞を得たという逸話が残っている。
谷口香嶠(1864-1915)たにぐち・こうきょう
元政元年生まれ。出生地は京都市宮川筋と大坂和泉日根野村の2説ある。旧姓は辻、本名は雅秀、通称は槌之助。別号に後素斎がある。豪商辻家から谷口家に養子に入った。幼少期から深草の宝塔寺内に預けられ漢籍を学び、『日本外史』を愛読した。明治16年幸野楳嶺に入門。明治23年第3回内国勧業博覧会で3等妙技賞、明治24年京都私立日本青年絵画共進会で2等3席、明治28年第4回内国勧業博覧会で3等1席、明治28年日本青年絵画共進会で3等賞、明治30年第1回全国絵画共進会で3等銅牌、明治33年パリ万国博覧会で銅牌、明治40年第1回文展で3等賞を受賞するなど多くの博覧会や共進会で受賞を重ねた。また、青年期には竹内栖鳳らと煥美協会を結成、『美術叢書』を発行するなど多彩な芸術活動を続けた。明治27年京都市美術工芸学校の教諭となり、明治42年からは絵画専門学校の教諭を兼任し後進の指導にあたった。明治35年にイタリアトリノ市の万国装飾博覧会出張視察のため渡伊し、ヨーロッパ各国の美術工芸を視察し、翌年の帰国後は工芸図案の革新にも取り組んだ。有識故実に通じて歴史画をよくした。大正4年、51歳で死去した。
京都(165)-画人伝・INDEX
文献:近代の京都画壇、近代京都日本画史、日本絵画・20世紀の草創、近代の京都画壇、円山応挙から近代京都画壇、日本画家人名事典、京都と近代美術、日本美術院百年史1巻上