江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

京都画壇の近代化に大きく貢献した久保田米僊

久保田米僊「海陸戦斗図」高岡市立博物館蔵

久保田米僊(1852-1906)は、京都の錦小路の料理屋の長男として生まれ、鈴木百年に師事した。また、澤渡精斎に敬史を学び、そのかたわら京都の貸本屋を巡って古代の歴史風俗も独学研究した。先進的な性格で、作風が流派に支配される近世以来の旧習から脱却することを主張し、決まった流派様式にこだわらず、作品によっては様々な画風を試みた。

明治6年の第2回京都博覧会頃から盟友・幸野楳嶺との親交がはじまる。以後、楳嶺とともに京都画壇の革新に取り組んだ。この頃の米僊は、「京都日日新聞」に挿絵を描いたり、風刺雑誌「我楽多文庫」の編集に携わるなど多彩な活動をしていたが、南画全盛のなか生活は困窮し、友禅の下絵を描いたり、貿易画を描いたりしていた。この頃に油絵も試みている。

明治11年、京都に画学校を起こす必要性を訴え楳嶺らとともに建議書を提出し、明治13年の京都府画学校設立を成し遂げた。明治15年の第1回内国絵画共進会では、当初あまり乗り気でなかった京都の画家たちの出品を説得し、自身は出品総代をつとめるなど、京都画壇が一丸となるために尽力した。

明治22年のパリ万博や明治26年のシカゴ万博に出品した際には、私費で渡仏、渡米して現地を取材し、『閣龍世界博覧会美術品画譜』を刊行するなど世界の動向にも目を向けた。明治27年からは東京に居を移し、徳富蘇峰の国民新聞社で挿絵画家として活動した。日清戦争の折には特派員画家として従軍し、「海陸戦斗図」(掲載作品)などの報道記録画を制作した。

明治30年、岡倉天心納富介次郎からの要請で、石川県工業学校図案絵画科の教師として赴任するが、眼病をわずらい、明治33年ついに失明してしまう。以後は東京に帰り、俳諧、狂歌、都々逸などで身を慰める一方で、昔見聞きした絵画の評論などをした。明治35年には見聞録『米僊画談』を刊行したが、明治39年、胃がんのため54歳で死去した。時代を先へ先へと駆け抜けたような生涯だった。

久保田米僊(1852-1906)くぼた・べいせん
山脇皜雲ら金沢工業学校の開校に際して図案絵画科教師として中央から招聘された日本画家

京都(142)-画人伝・INDEX

文献:円山応挙から近代京都画壇、京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]、近代の京都画壇、近代京都日本画史、日本画家人名事典、日本絵画・20世紀の草創、日本美術院百年史1巻上