江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

江戸から明治へ円山派の正系を守った国井應文

国井應文「梅花唐美人図」

国井應文(1833-1887)は、京都の医者の家に生まれた。母が円山応挙の孫で、円山家三代・応震の妹にあたる。芸術的に恵まれた環境のなかで育った應文は、応震の養子で円山家四代となった應立に師事して画法を学び、應立没後は一門の後援者となり、円山派の正系を守った。安政度の内裏造営の際にも一門として参加した。

慶応2年頃の「雲如社」の結成には、塩川文麟中島来章らとともに参加し、京都画壇の近代化と若手の育成に貢献した。明治期には京都博覧会や内国絵画共進会などに出品して活動の場を広げ、明治13年には京都府画学校への出仕を拝命した。

掲載の「梅花唐美人図」は、応挙以来円山派が得意とした題材である唐美人を描いたもので、応挙世代の円山派の絵師たちの描いた唐美人図に比べると、伝統的な姿を守りながらもより写実的で豊かな人物表現になっている。

国井應文(1833-1887)くにい・おうぶん
天保4年京都生まれ。医師・国井良伯の子。円山応震の甥。字は仲質。別号に彬々斎がある。円山家四代・應立に師事し、明治8年の應立没後は後継者となり、円山派の正系を守った。安政度の御所再建や明治6年の第2回京都博覧会の余興書画会に参加。明治13年設立の京都府画学校では出仕となり、明治17年第2回内国絵画共進会では賞状を得た。明治20年、55歳で死去した。

円山應立(1817-1875)まるやま・おうりつ
文化14年京都生まれ。友禅の職人・寺井久次郎の子。円山応震の養子となり円山家四代を継いだ。幼名は勝次郎、のちに多都雄、通称は主水、字は子道。別号に才壺、米斎、星衆館などがある。形式的だが円山派の画風を守った。明治8年、59歳で死去した。養子の応章は應立より2年早く30歳で死去した。

京都(143)-画人伝・INDEX

文献:円山応挙から近代京都画壇、描き継ぐ日本美 円山派の伝統と発展、日本画家人名事典