原在中「二見浦富士図」敦賀市立博物館蔵
原在中(1750-1837)は、京都の酒造家に生まれ、はじめ鶴沢派の石田幽汀に学び、同門の兄弟子・円山応挙に大きな影響を受けたと考えられている。さらに京都の社寺に所蔵されていた中国画を学び、古狩野や土佐派も加味して自らの画風を確立し、原派を形成した。
在中と応挙の関係については、『古画備考』に、応挙没後、応挙の弟子ではないと言った在中に腹をたてた岸駒が、応挙の門人帳を調べ、在中自筆の入門名簿をみつけたという話があるように、在中は応挙にも学んでいたと考えられており、大乗寺の円山派名簿とされる資料にも在中の名前が掲載されている。
また、近年大乗寺で新たに発見された資料では、円山派一門とともに作品の制作者として在中が名を連ねており、円山派の一員だったことが指摘されている。
原在中(1750-1837)はら・ざいちゅう
寛延3年京都生まれ。原派の祖、名は致遠、字は子重。臥遊と号した。はじめ石田幽汀に学び、のちに円山応挙に学んだ。寛政度の御所造営の際には応挙の門人のひとりとして障壁画を描いた。中国画や日本の古画、土佐派のやまと絵などを融合した独自の画風を確立した。三時知恩寺、相国寺、大徳寺塔頭などに多くの障壁画を残している。天保8年、88歳で死去した。
原在明(1778-1844)はら・ざいめい
安永7年京都生まれ。原派二代目。原在中の二男。兄在正が早世したため父のあとを継いだ。名は近義、字は子徳。別号に写照がある。父に学び、画をもって宮廷に仕え、大和介に補せられた。弘化元年、67歳で死去した。
原在照(1813-1871)はら・ざいしょう
文化10年京都生まれ。原派三代目。原在明の娘婿。字は子写。別号に観潤がある。画法を養父に学んだ。安政度の御所造営では障壁画制作に参加。有識故実に通じ宮廷の御用をつとめた。明治4年、59歳で死去した。
原在泉(1849-1916)はら・ざいせん
嘉永2年京都生まれ。原派四代目。原在照の子。松濤と号した。明治13年京都府画学校教授となった。明治15年第1回内国絵画共進会の審査員となった。大正5年、68歳で死去した。
京都(124)-画人伝・INDEX
文献:円山応挙から近代京都画壇、京都画壇の一九世紀(2)、日本画家人名事典、江戸の花鳥画譜、江戸絵画入門、江戸の美術大図鑑、円山応挙