フィリピンで戦死した大塚耕二(1914-1945)の制作活動は10年にも充たないものだったが、大塚はその間、日本に入ってくる西欧の新しい芸術思想を次々と吸収し、初期の具象から抽象を経て、当時最前線とされたシュルレアリスムへと画風を変えていった。大塚が帝国美術学校在学中に独立展に発表した《トリリート》は、1938年(昭和13)にパリで刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』に、日本の代表的シュルレアリストの作品として「黄昏の隔世遺伝」の題名で作品図版とともに紹介された。
中学卒業後に坂本善三の指導を受けた大塚は、坂本の母校である帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学、西荻窪の同潤会アパートに住んだ。その翌年には学生仲間と絵画グループ「表現」を結成、銀座の紀伊国屋画廊を拠点に活動した。在学中は表現展および独立展に発表、卒業後は美術文化協会の創立に参加した。
美術文化協会の第1回展には《鳥と太陽》を出品、それを見た超現実的詩人で美術評論家の瀧口修造は、大塚を「造形詩人」と称したという。翌年、第2回展に出品するが、同年召集を受け西部二十一部隊に入隊、翌年満州ハイラルに、さらにフィリピンに派遣され、昭和20年7月30日、ルソン島プログ山で戦死した。
大塚耕二(1914-1945)
大正3年菊池市生まれ。中学校を卒業後、坂本善三に指導を受け、昭和9年帝国美術学校西洋画科に入学。翌年、浅原清隆、小田正春、森堯之ら学生仲間と絵画グループ「表現」を結成、翌年から銀座の紀伊国屋画廊を拠点として展覧会を開催した。昭和11年、表現メンバーを中心に「映画研究会」を結成。同年、アヴァン・ガルド芸術家クラブの結成にも参加した。昭和12年、第4回表現展および第7回独立展に《トリリート》を出品、翌年も独立展に出品した。昭和14年、帝国美術学校を卒業、独立展に出品するとともに、同年美術文化協会の創立に同人として参加した。昭和15年熊本市の千徳デパートで個展。同年美術文化第1回展に出品した。昭和16年、美術文化第2回展に出品するが、同年10月召集され、西部二十一部隊(熊本野砲隊)に入隊。翌年満州ハイラルに、その翌年にフィリピンに派遣され、昭和20年、ルソン島プログ山において31歳で戦死した。
熊本(22)-画人伝・INDEX